猫と私と先輩と



 窓を叩く雨の音を聞きながらソファに座る。
 他の音は何も聞こえず、しかし、その音が心地よく耳に届く。目を閉じ、ゆったりと耳を傾けていると、突然無粋なチャイムの音がした。
 時計を見れば、もう夜の九時を回っている。忙しく働きまわり、帰宅するのも日付が変わった後ということがざらにあるためか、約束でもしない限りマンションに誰かが訪ねてくる事は滅多と無い。それ以前に、この部屋に来る人間はそもそも少ない。
 人の迷惑を余り省みない学生時代の先輩か、もしくは時折抜け目無く我が侭を言ってくる従弟か、人の予定など気にも留めない親類か。
 まあ、その程度だろう。
 その何れだろうかとほんの僅か思案して、結局自分の目で見た方が早いと相手を確認する。部屋の前のカメラが映すのは、濡れ鼠の学生時代の先輩で、溜息の一つも吐きたいのを堪えてドアを開けた。
「よっ」
「…何をしているんです」
「いやあ、はっはっは」
「笑い事ですか、全く。…それで、その腕に抱えている物は何です?」
「物とは失敬な。可愛い可愛いお猫様だぞ」
 わざとらしく怒ってふざけて見せるが、そんなものに乗る義理は無い。
 彼の腕の中ではまだ生まれて数ヶ月経っても居ないだろう子猫が、大切そうにジャケットに包まれていた。
「で?」
「………いやあ、つい拾っちまったはいいが、うちのアパート、動物禁止だろ?どうしたものかと思ったけど、確かお前のマンションはペットOKだったよなあと思い出してさ」
「…それで?」
「暫くでいいんで、預かってください」
 視線で威圧すれば、ようやく本題を出して頭を下げた。
 この人はすぐに冗談ではぐらかそうとするところがあるのがいけない、そう思いながらも此処で無碍に追い返すほど無情でもない。
「兎に角上がってシャワーを浴びてください、猫ともども。…大体傘持って無かったんですか」
「いやあ、今日は朝から晴れてただろ?だからつい、まあいいかなあと」
「今が梅雨時だということを理解しているのなら、例え晴れていたとしても折り畳み傘くらいは持ち歩くべきですね」
「そうだなあ」
 全く反省の色の見えない同意を示しながら、はた迷惑な先輩は部屋に上がってくる。勝手知ったる他人の家とばかりに上がりこみ、真っ直ぐにバスルームに向かった。
 転々と続く足跡と雫を見て軽く眉を顰め、タオルでその跡を拭ってから適当に着替えを見繕う。目に付いたワイシャツとスラックスを取り出して、バスルームに居る金澤さんに声を掛ける。
「着替えとタオルは置いておきますよ」
「おう、ありがとなー」
 本当に感謝しているのだか解からない言葉がバスルームの響きと反応して返ってくる。その彼の行動の一つ一つに文句を言っても仕方が無い。そんなことは随分昔に悟ったことだ。
 猫用のタオルも用意して、まとめて置くと、代わりにずぶ濡れになっている服を洗濯機に入れる。ゴトゴトと音を立て、動き出したのを確認してから、リビングに戻った。

「いやあ、悪かったな、ほんと」
「別に構いませんよ。こんな時間に突然来るのは確かに非常識ですが」
 猫を丁寧に拭きながら、リビングにやってきた金澤を見て、立ち上がる。子猫は拭いてもらうのが気持ち良いようで、おとなしくじっとしている。逆に金澤さんは自分の頭を拭くのもそこそこにしてきたようで、未だ雫がぽたぽたと服に落ちている。
「猫も結構ですが、自分の髪もちゃんと拭いてください」
 肩に掛けているタオルを取り上げ、金澤さんの頭を拭く。
「悪いなあ」
「悪いと思ってないでしょう、あなたは」
「そんなことないって」
 大人しく頭を拭かれながら、視線は完全に猫に向いている。
「それで、暫くというのは、どれくらい預かれば良いんですか?」
「ん〜、飼い主が見つかるまで?」
「何故疑問系なんです」
「いや、すぐに見つかればいいけどさ、そうとは限らんだろ」
 金澤さんの髪を拭いていた手を離すと、顔を上げられ視線が合う。
「お前が飼ってくれれば一番良いんだけどな。それなら俺もいつでも会いに来れるしな」
「いつでもって、どれだけ通うつもりですか。そもそも、忙しくて帰れない日もあるのに生き物を飼うなんて無理ですよ」
「む…そりゃそうか。まあ、兎に角、出来るだけ早めに探すからさ」
「本当に早くしてくださいよ」
 生き物の命を預かる以上、中途半端な事は出来ないが、こちらも仕事がある。本当に忙しい時は何日も帰れないこともあるぐらいだ。今はそれ程では無いとはいえ、まだまだ学院の経営は安定していない、暢気に飼うということは出来ない。
「じゃ、よろしく。ほら」
 そう言って子猫を手渡してくるのを受け取る。少し湿った柔らかな毛と体温が、そこに命があるということを如実に表している。不意に触れる温もりは優しい。子猫は手の中で嫌がることなく、温もりを求めるように頬をすり寄せる。
「可愛いだろ〜」
「否定はしませんが、何故あなたがそんなに自慢げに言うのかは理解出来ませんね」
「何だよ、俺が連れてきたんだから良いだろ」
 大人げなく膨れて見せてから、ふと今着ている服の袖を摘む。
「ところでさ、このシャツ、ちょっときついんだが」
「…そうですか?私は普通に着れますが」
「なんつーか、こう、腕のところが窮屈な感じがなあ。別に着れない訳じゃないんだが」
 身長も同じだし、体格も然程違わない筈だから、何の問題も無いと思っていたが。
「服のサイズ、同じですよね?」
「の、筈なんだけどな。何だ、俺が太ったってことか?」
「そんなことは無いと思いますが」
 見た限りでも、金澤さんが太っているとは思えない。
「じゃあ、お前が細いのか?」
「…標準だと思いますが」
 まあしかし、それでも金澤さんがきついと言うのなら、何であれ違いはあるのだろうが。金澤さんは軽く首を傾げたあと、唐突に私の腰を両手で掴んできた。
「なっ…」
「やっぱり、俺よりは細い気がするな。ちゃんと食ってるか?」
「なにをするんですか、いきなり!」
 突然腰を掴まれて危うく子猫を落としそうになった。しっかり抱えなおしながらも、そのせいで逆に金澤さんの手を振り払えない。
「いや、実際触って確かめるのが一番早いだろ」
「きついと言っていたのは腕だったと思うんですが」
「まあまあ、細かいことは気にすんなって」
「細かくないでしょう」
 全く悪びれない様子の相手に、不満はあってもそれで口論したところで何の意味も無い。
「いい加減、その手を離してくれませんか」
「えー」
「何故不満そうなんですか、セクハラで訴えますよ。きついなら、違う服を出しますから」
「馬鹿言え、恋人相手なんだからセクハラにはならんだろ」
 彼の口にした『恋人』という言葉に、途端に気勢が殺がれる。それに気づいたのか、逆に調子に乗った金澤さんは、腰を掴んでいた手を更に下へと滑らせていく。
「な、金澤さ……ん…っ」
 文句を言おうとした口は、それが発せられる前に塞がれる。こちらは猫を抱いているせいで抵抗もままならなず、されるがままになるしかない。
 啄ばむような口付けを何度か繰り返した後に、にやりと笑う。何処までも確信犯の笑みで。
「違う服はいいや、どうせすぐに脱ぐしな」
「っ、あなたはどうしてそう…」
「嫌じゃないだろ?猫はお前の腕が気持ち良いのか、すっかり寝ちまったし、ソファにでも寝かせておけばいいだろ」
 言われて見てみれば、確かに子猫は眠ってしまっているようだった。元々おとなしかったせいで、いつの間に眠ったのか、全く気づかなかったが。
「今度は俺が、お前を気持ちよくしてやるから、な」
 きっと、この人には断られるという選択肢は、全く無いのだろう。そして結局、断れない、拒絶出来ない自分が居ることが、少しばかり悔しいが。
 どこまでも、この人に弱いのだ、私は。
 結局言われるままに、猫をソファに寝かせ、促されるままに寝室に向かう。
 駄目だなんて言葉は、一言も出せないままに。




 その後、一月経っても貰い手は見つからず、未だに私の部屋には猫が居る。


Fin





小説 B-side   金色のコルダ