天朱紅姫様
借りを返すのだと、彼は言った。 瀬那が『自由』を得た瞬間だった。 偶然と呼ぶべき出会いだった。 望んでそうなった関係ではなかった。 彼が身を置いていた『闇』とはまた別の『闇』の世界に、瀬那はいた。 そうだ。闇の人間と闇の人間が、一つどころにいることによって、ますます深く果てしない闇に包まれるような関係だった。闇の底を決して見ることができないように、終わりの見えない関係だった。 それでも彼は、一生涯瀬那を縛りつけるようなことはしなかった。けれど、その瞬間は、あまりにも呆気なかった。 現実感を伴わないふわふわとした心許ない気持ちのまま、瀬那は彼とは別の世界に一人で立っていた。 彼との関係が、完全に途切れたわけではない。顔を合わせることも、声を聞くことさえもなかったが、瀬那が大学に通えていたのは学費を持ってくれている彼のおかげだった。その四年間だけは、たとえ直接向かい合うことがなくても、確かに二人は繋がったままでいた。 脆い繋がりだった。 それでも四年という月日で、切れることなく繋がっていた糸は、瀬那の卒業と共にあっさりと切れた。 また、呆気ないものだと思った。 そして今度は……今度こそ、二人を繋ぐものは完全に絶たれた。 まるで最初から知り合ったこともなかったかのように、どこかで擦れ違うことさえもないまま、気づくと十年近い月日が流れていた。 不思議な人だったと、あの頃の自分に「意外だ」と言われてしまいそうな印象を、今の瀬那は彼に抱いている。 恐ろしい人だと思っていた。たぶんそれが、彼に対する、一番確かな感情だった。 それなのに、今は恐れではなく、不思議だと思う気持ちの方が強い。 十年ほども経ったというのに、いまだ忘れることなく、容貌までもはっきりと思い出せることも含めて、不思議な人だと思った。 「You are a Japanese?Because you had rare hair, I thought whether it was a person of what country.I was surprised」 日本人なの? 珍しい色の髪をしているから、どこの国の人なのかと思ったんだ。 驚いた。 本人も言っているとおり驚いたせいか、早口で捲し立てられた言葉を、少しの時間をかけて意味を読み取った後、瀬那は微笑んだ。 愛想笑いでも、嘲笑でもない。好意も悪意も何も含んでいない、ただの笑顔だった。 けれど、目の前にいる男の顔に下卑た笑みが広がっていくのを見て、いっそうにこにことしてしまったところを考えると、どちらかといえば悪意寄りの笑顔かもしれない。 客観的に判断する瀬那の頬に、不躾にも指が添えられた。 酒場で夕食をとっていた瀬那の隣に、突然座ってきた男は、不躾にも先ほどからずっと話し掛けてくる。店内はそこまで混んでいるわけではなかったが、目の前に並んでいる料理をすべて持ち運んでまで移動することもないと思い、気にせず食事を続けていたのだが、なかなかに厄介な人物だ。 年は瀬那と同じか、もう少し下か。ウェーブのかかったブロンドの長髪は見事だし、身なりにもかなり気を遣っているのはわかるが、つまりは典型的なナンパ男である。少し積極的な若い娘ならば話相手くらいにはなったかもしれないが、瀬那にしてみれば正直邪魔だった。 素っ気ない返答しかしていなかったのに、男はまったく意に介した様子がない。それならばと黙っていても、相手の方は喋り続けている。黙ったままで聞いていると、ほとんどが自分の自慢話のような内容だった。 とりあえず、何か言いたいだけなのか。 他にも思い浮かぶことはあったが、とりあえず瀬那はそう結論を出して、時折気のない相槌を打つだけにすることに決めたのだった。 「日本人というわけではありませんよ。ただ、日本から来たと言っただけです」 「なるほど。だけど、まさか近くの国というわけでもないんだろう?その瞳の色だって……」 頬に添えられていた指が、顎の方へ下り、手の平で包みこむようにして上を向かされる。 さすがに表情を引き締めた瀬那の視界の中で、男の目が笑う。 「青いけど、俺達とは違う。もっと深くて青い、まるで海を切りとってはめ込んできたような、綺麗な色だ」 「お褒めいただけて光栄です」 「褒めずにはいられないさ。もしかして、深海の国から来たのかな?」 「……さあ、どうでしょう?」 瀬那はやや尖った声を返すと、さりげなく男の手をほどいた。 まったく、ついてない。 これでも順調に旅を続けていると思うのに、どうしてこういうのに引っかかることも多いのか。いい加減慣れっこになり、一応は冷静に対応ができてしまう自分がむなしいったらなかった。 けれど、今回は別だった。 「怒ったのか?」 放ったばかりの手が、今度は腕を掴んでくる。顔よりはマシだが、やはり不快感がこみ上げてきた。 しかし、男を睨んだ途端に、胸の中で炎が消えていくような感覚に陥る。 なぜだろう。 彼を思い出す。 BGMのような男の一人語りを聞いている最中に、あの懐かしいと思えるようになった人の面影が蘇ってきたのは、この眼のせいなのだろうと、頭の奧で考える。 色はまったく違う。あの、眼だけで人を縛り支配するような鋭さはない。 強いていえば、雰囲気云々ではなく、形そのものが似ているのだろうか。 眼力が違うのだから、彼に見つめられている気がするわけではないが、それでも動揺が走る。 「いいえ」 瀬那はまた微笑み、今度は解放するだけでは済まさず、無遠慮な手を机上に押しつけた。 思いがけない力を入れられ、男の顔に驚愕と苦痛が走る。 人が苦しんでいる顔を、それも自分のせいで痛がっている顔を見て、良心がまったく咎めなかったわけではない。だが瀬那は笑顔のまま、男の表情の変化になど気づかなかったように、手を押しつけたままで言った。 「ただ、もう食事が終わったものですから。先を急いでいるもので、失礼させていただきます。いいお話相手になれなくて、すみませんでした」 大きな街ではなかった。 けれど人が多く、普段は閑散としているのではないかと思えるような場所にさえ、人の集まりがいくつも見られる。 つい今さっき後にしてきた酒場も、案外一時間もしたら混雑しているかもしれない。 瀬那は顔を上げ、夕暮れと夜闇の中間地点に居るような空を眺めた。 やや紫がかった鮮やかな赤と、明るい部分と藍色に近い部分が混在した青の、美しいグラデーションがどこまでも広がっている。 見つめている色自体は、二人のイメージとはやや異なっているものの、赤と青と、それだけの色名には愛しさがこみ上げてきた。 明るく前向きな翔。 聡明で思慮深い櫂。 ずっとずっと見守り続け、ついに守り通すことが叶い、今は平和な場所で穏やかに暮らしている双子の兄弟。 王子と近衛兵という元々の関係図ははじめから二人の頭にはないようなものだが、生徒として教師である自分を慕ってくれている大切な二人から離れてきたのは、彼らのそばに在りたいと願っていたはずの瀬那自身だった。 彼は瀬那を、解放した。 彼は瀬那を、『自由』にした。 あの時確かに、瀬那は自由というものを手にした。人から与えられたものとはいえ、確かに瀬那だけの自由だった。 それなのに、なぜか瀬那は、自由を求めて彷徨っている。 自分を見つめ直し、自分らしい生き方を見つけるためにはじめた、前向きな理由を持つ旅だった。だが、自由を求めて彷徨っているというのは、現実離れさえしている、暗い夢のような例え方ではないか。なぜ、そんなことを考えてしまうのだろう。 「……難問ですね」 自分が自分に与えた難問である。 しかも、すぐに考え、ましてや答えを出せるような問題ではない。 いわば、瀬那が大切なものがある日本を離れてまで見知らぬ世界に飛び立ってきた、今現在の行動理由そのものなのだから。 「今日はお祭りがあるんですか」 「あんたは運が良かったよ。もう少し遅かったり、二人以上で来ていたりしたら、今夜泊めることはできなかったからね」 見るからに快活そうな旅館の主は、まるで子供を怖い話でからかうような声で言う。 つられて笑いながら、瀬那は安堵の息をついた。 旅館が密集しているこの場所で、一番こじんまりとした場所を選んだのは正解だった。まだ真冬ではないとはいえ、夜は冷えるし、街灯があっても暗い場所をいつまでも歩いていたいとは思えない。 「小さな街の祭りだけど、だからこそ皆気合いを入れてるんだよ。代わり映えのない生活を送っている地味な場所だから、盛り上がれる時には普段溜め込んでる力を全部出すんだよ。この時ばかりは、近辺からたくさん人も来るしね」 「ああ。それで」 ようやく、街並みには不似合いだった人の多さを納得した。 「そういう日に、この街に来たのも何かの縁だろう。あんた若いんだし、せっかくだから行って一緒に盛り上がってくるといいよ。出店を見ているだけでも楽しいものだからね。私も、あとで息子に店番を変わってもらって、女房と行ってこようと思っているんだよ。息子のことは心配ないさ。人が多い場所が苦手な小心者だからね。土産の一つでも買ってきてやると約束すれば、あっという間に上機嫌になるような奴だ」 あのナンパ男といい、よく喋る人間が多い気がする。……と判断してしまうには、まだ早いだろうか。しかしこれも、『代わり映えのない生活を送っている場所だから、盛り上がれる時には普段溜め込んでる力を全部出す』ということなのかもしれない。 「そうですね……」 瀬那は、小さな窓から見える、ぼんやりとした灯りを見つめた。 旅館は頑丈そうな木で作られているが、それでも人の声がここまで聞こえてくるように思えた。 どんな状況にいようと、楽しむための場所の雰囲気というのは、こちらの心も少なからず明るくしてくれるものだ。 それもいいかもしれませんね。そう答えようとした瀬那だったが、逸らそうとした目を窓に張りつかせたまま、瞬時に硬直した。 不思議な人だった。 何年も何年も会っていないのに、その顔も声も、まだはっきりと思い出せる人。 怖いほどに鮮やかな記憶の中から、そのまま抜け出してきたような男が、曇った窓ガラスの向こうに、立っていた。 まさか外からこちらを見つめているわけではない。 何メートルも離れた場所で、こちらに背を向けて佇んでいる。 それなのに……瀬那はすぐに、その男が誰なのかを見抜いたのだった。 「お客さん!?」 主人の声が背を打つ。 荷物も放り出して、突然外に飛び出した客に驚き案じる気持ちが、彼の声を悲鳴に近いものにしてしまったとわかっても、瀬那は立ち止まることどころか、振り返ることもできなかった。 旅館の中からは確かに見えた姿は、外に出た途端に、どこにも見当たらなくなってしまった。窓ガラス越しに見るよりも、同じ外にいた方が確実に見つけやすいだろうというのに、なぜかなど、考えるまでもなかった。 この街にたどり着き、旅館に入り、こうしてまた外に出てきた僅かな時間の間に、外を歩く人間は何倍もの数にふくれあがってしまっていたのである。 行き交う人々の波は、まるで本当の荒海のように、瀬那の心をかき乱した。 呼吸をするのも苦しいほどに焦り、見開いた目を方々に向けた。 それでも、どこにもいなかった。 先ほどは確かに、瀬那の目に映る、ただ一人の人だった彼が。 気のせいだったのだろうか。 久々に彼のことを思い出したから、幻を見てしまったのだろうか。 少し冷静になってみれば、おかしいことだった。日本にいるはずの彼が、なぜ海外、それもこんなに小さな街に立っていたのか。 ましてや、一人だった覚えがあるのだ。そんな無防備なことを、あの人がするとは思えない。 頭は、確かにそう考え、頷いている。 けれど、心は納得していなかった。 頭が、筋の通った思考を立てれば立てるほど、心はそれを強く否定する。 瀬那は正面を見ると、旅館を出てきた時のような勢いで駆けだした。 衝動のままに走っていると、やがて鼓動を高鳴らせる姿を見つける。 気のせいではなかった。声にならず、心の中でのみ叫んだ確信が、鞭のように瀬那を叩いて、もっと走れと促した。正体のわからない主に疑問を感じる余裕もなく、瀬那は忠実に走り続けた。 しかし突然、どこからか伸びてきた腕が、後ろから引っ張って足を止めてしまう。 足を滑らせそうになって、慌てて膝に力を込める。しかし、心臓が大きく鳴っているのは、たった今驚いたせいではない。 もう、ずっと前から、胸を破ってきそうなほどに高鳴っている。とっくに気づいていた。 「お兄さん、どこに向かってるんだ」 瀬那の腕を掴んでいるのは、農民風の逞しい中年男だった。 ウィンフィールドで来栖と共に政務に励んでいるはずである紫苑の顔が、フッと脳裏を過ぎって、懐かしい気持ちにさせられる。 それが少しだけ熱を冷ましてくれ、瀬那は照れたように笑った。 「いえ……何でもないんです。申し訳ありません。ぶつかりそうになってしまったでしょうか?」 「そうじゃなくて、向かう方向が違うって言ってるんだ。そっちは良くないよ」 「え?」 「ここらじゃ見ない顔だね。旅行客か?」 やや気圧されつつも頷くと、男は「それなら事前調べはちゃんとしてきなよ」と言って笑う。 「あの光が見えるか?」 ちょうど真上を指し示されて上を見た瀬那は、ハッと息を呑んだ。 赤と青が混ざり合い、紫色に染まった不思議な空の中に、ぽっかりと白いものが浮かんでいた。 「……月?」 「違う。光のかたまりだ」 ぽかんとする瀬那に、男は歯を見せて笑う。 「一年に一度しか見られないものだぞ。今はまだ小さな光だが、今にもっと大きな、眩しい雲みたいなのに変わる。その大きさが最高潮に達した時、空から光の道が延びてくる。その光の道を追ったら、来年の祭りの日まで、明るい希望に満ちた道を歩んでいけるんだ」 「はあ……」 とぼけた反応しかできない。しようがなかった。 このように厳つい男と、童話のような夢見がちな話は一見不似合いなのに、男はごく自然に何の違和感もなく話して聞かせてくれる。父親が、子供に物語を読んでやるような口調だったからかもしれない。 ……見知らぬ土地にはじめて来たのだから、知らないことが多くて当然とはいえ、自分が子供の役割だというのは、奇妙には違いないのだが。 酒場で出会った男とは違い、下心の類は一切感じられないが、いつまで経っても腕を離してくれないことに瀬那は困惑してしまった。 「聞いていたか?」 「は?」 わざと恐ろしげにしかめたような顔を向けられて、はじめて、まだ何かを話していたから解放してくれなかったのだと気づく。 途端に慌てた。 「す……すみません。もう一度お願いします」 すると男は大袈裟に溜息をついたが、物事に深くこだわったりしない性質なのだろうか。 文句一つ言わずに、先ほど言ったばかりらしいことを、もう一度話してくれた。 「あんたが行こうとしていたのは、その光が差す方とは真逆の道だよ。それがどういうことかわかるだろう?希望も何もない、闇の世界へ行こうとしているっていうことなんだ」 「闇の世界……」 不吉な言葉は、違和感なく心に染みわたっていく。 たぶん、彼が歩いていった道だからだろう。 光の差さない、闇の道を彼は行こうとしている。 こんなにも大人数の人間がいるにも拘わらず、誰一人として、行こうとしない道を、単身進んでいく。 なぜだろう。 夜だとは思えないほどに明るく、にぎやかな場所にいるからだろうか。 彼は、まるで世界そのものに背を向け、誰にも気づかれないまま姿を消そうとしているように見えた。 だから思った。 このまま突っ立って見つめていたら、二度と彼の姿を見ることはできない。 こんなにも記憶に深く刻み込まれている存在を、忘れるはずがないだろうとは思う。 けれど、少しずつ、ゆっくりと、はじめから居なかった人のように、消えていく。瀬那の心に残っていても、世界からは消えていく。そんなはずはないのに、なぜか予感のようなものが胸をかすめ、不安に苛まれて息が詰まりそうになった。 手のほどき方が、乱暴だったかもしれない。 男に対する所作を反省した時には、すでに瀬那は人混みから遠く離れた場所にいた。 どんどん遠くなっていくざわめき声の中に、軽快な音楽が混じり始めた頃には、すでに瀬那の耳は沈黙の方に馴染みはじめていた。 全身を包んでいくようだった熱気も失せ、かすかに肌寒ささえ感じる。 しかし一心不乱に走り続けているせいか、胸から頭にかけて、目眩を起こすほどの熱が迸っていくのがわかった。 石畳を叩く足音は、周囲の静けさのせいか複数によって鳴り響いているように思えたが、実際は瀬那一人のものでしかない。 建物と建物に挟まれた、狭い広場に出てきて、ようやく瀬那は、ここらにいるのが自分一人だけだということに気づいた。 「そんな……」 疲労と絶望に掠れた声を洩らした時、顎を玉のような汗が下り落ちていった。 旅をしているのだから長い距離を歩き続けることは当たり前とはいえ、こんなにも長い時間を全力で走ったのは久しぶりだからだろうか。震える膝が、苦痛を伝えてくる。心臓は壊れたように鳴り狂い、喉は酸っぱいものを詰めたように息苦しい。 けれど、体が限界を訴えかけてきていることなど、今は気にしていられなかった。 思わず呟き声を出してしまったのも、人一人見当たらない、薄気味悪い場所に来てしまっていたからではない。 もちろん、この静寂は絶望の要因ではある。 彼を追ってきたつもりが、とうの昔に見失い、それにも気づかずこんなところまで走ってきてしまったのだ。 当然、どこで見失ったのかなど覚えてはいない。 第一、彼が向かったような気がした方向へ瀬那も向かっただけで、その後どこを曲がったとか真っ直ぐに行ったのかなど考えることさえしていなかった。もしかしたら、彼は引き返したかもしれないし、途中にあったどこかの建物の中へ入っていってしまったかもしれないのに。 「……何をやっているんでしょうね、私は……」 自嘲をたっぷりと含んだ声が、苦笑と共に口をついて出る。 本当に、なぜこんなことをしているのだろう。 彼を追ってきてどうするつもりだったのか。 今更……そう、今更でしかない。彼の方は、とっくに自分のことなど忘れてしまっているかもしれないのに。 湿気を帯びて垂れてきた髪を、邪魔っけにかき上げる。 広くなった視界には、やはり誰の姿も映っていなかった。 人どころか、何かの物音さえ聞こえない。地元の住人にすら、忘れ去られてしまっているのではないかと思うような場所だった。 そういえば、旅館に荷物を置きっぱなしにしてきてしまっていたのだ。 無防備な自分を恥じる気持ちと、迷惑をかけてしまったであろう旅館の主人への申し訳なさが、むなしさに拍車をかけた。 とにかく、荷物のことを思い出した以上、一刻も早く戻らなくてはならない。 後ろ髪を引かれるような名残惜しさを、あえて無視して、瀬那は走ってきた道を振り返った。 そして、息を呑んだ。 何メートルか離れた建物の影に、誰かがいる。 薄暗くて顔はわからない。 しかも暗色系の衣服に身を包んでいるので、そのまま影の中に溶けていってしまいそうな危うさがある。 いや、わざと、影の一部になろうとしているのだ。そのことに勘づいたのは、不気味な影の中に、きらりと光る銃口を見つけたからである。 むなしさも絶望感も疲労も忘れ、瀬那は慌てて上着の中に手を突っ込んだ。 しかし、手は上着の中を彷徨うばかりで、いつまで経っても求めているものに触れない。 (しまった……) 何て迂闊だったのか。小型銃を入れておいた上着は、バッグの中に入れてしまったのだった。 双子の王子を守る近衛兵ではなくなり、真っ白になった自分を、新しい色に染めるためにはじめた旅だ。そのため、近衛兵時代を思わせる銃は、以前ほど持ち歩かなくなっていた。 まさかそのことが、命取りになろうとは思いもしなかった。 しかし、こんなことになることさえ予想ができなかったのだから、仕方のないこと……とは言っていられない状況である。 何者かはわからない。 殺気も感じられないが、銃口は確かに瀬那に向けられている。第一、こんなにも広い場所に立っている瀬那の姿に、あの人影が気づいていないはずがないのだ。 たとえ、元々は瀬那を狙っていなかったのだとしても、本来の目的のついでのように殺害される可能性は十分にある。 瀬那は歯噛みした。 どうするべきか考えながら、少しずつ、本当に少しずつ、後ろに下がっていく。 もちろん足音は立てないように気をつけている。 しかし銃口がひときわ強くきらめいたかと思うと、人影が勢いよく立ち上がった。 瞬く間の出来事に、瀬那は何もできなかった。 ただ、目の先にいる人物が放った弾丸が真横を通り過ぎていくのを。 逆側の、やはり真横を突き抜けていった別の弾丸が、その人物の脳に突っ込んでいくのを。 一瞬硬直した人物が、うめき声一つあげずに倒れていくのを。 ただ黙って、見つめていた。 風はそれほど強くない。 けれど血の臭いは、その微々たる風の一部になり、瀬那の鼻を撫でる。 自分の顔が、色を失っていくのがわかるような気がした。 そしてあの謎の人物は、そんな自分以上に、蒼白した顔をしているのだろう。 銃弾戦に巻き込まれた。それも、弾丸と弾丸が擦れ違ったギリギリの位置に、瀬那は立っていた。 そのことも驚きではあったが、不思議と恐怖とは異なっていた。 それでも唇を戦慄かせながら、おもむろに背後を振り返る。 あっという間に一人の人間を屍に変えた人物は、なぜかまだそこに残っていた。 瀬那がずっと注視していた者とは違い、彼は姿がはっきりと見てとれる場所に立っている。 だから、瀬那は人間が亡骸と化す瞬間を目の当たりにした時以上に、心臓が止まるような気がした。 「……相馬さん……」 ついに、その名が、唇から零れてきた。 最後にその姿を見た時から、十年以上の月日が流れている。 けれど彼は、全身に纏う覇気のせいかか、隙のない所作のせいか、目つきの鋭さのせいか、あまり変わっているように見えなかった。 本当に彼なのかなど、もう考える必要などない。深すぎる実感は、月日の流れがどんなに彼を変わり果てた姿にしていようとも、一目で正体を見抜けていただろうという予想と自信を与えてくれる。 確かに相馬は同じ場所にいた。偶然すぎて、むしろ偶然とは思えない邂逅を、自分は迎えている。驚きの一言ではおさまらない事実が、瀬那を混乱させて何も考えられなくした。 相馬は、どこか気だるげに……そのくせ、やはり一変の隙もない動作で、瀬那を見つめる。 表情に変化はなかった。 けれど、一瞬だけ見開かれた目に、動揺が走った気がしたのは、瀬那の気のせいだろうか。 「相馬さん……ですよね……?」 名乗ろうかと悩んで口ごもる。 名乗ってどうするのか。 相馬は、瀬那のことを命の恩人だと言って、解放してくれた。 けれど、ごくわずかな間手元に置いていただけの少年のことなど、忘れてしまっているかもしれないと思ったばかりなのに。 相馬は瀬那から目をそらし、まったく違う方向を見る。けれど瀬那は、彼が見つめている先を追おうとは思わず、ひたすら相馬から目をそらさずにいた。 ふいに、相馬が舌打ちをする。 「……やっぱり追ってきていやがったか」 久々に聞いた声は、明らかに瀬那に対するものではなく独り言だったが、その低い響きは瀬那からますます動きを奪う。 あの頃から、そうだった。 あの目で見つめられるたび。 あの声で名前を呼ばれるたび。 自由に動くことができなくなった。 しかし、今瀬那をそうさせているのは、少年の頃とはまた違う理由のような気がした。それが何なのかまではわからず困惑していると、相馬はゆったりと一歩前に進み出る。 胸が高鳴った。 一歩、一歩、一定の速度で、相馬はこちらへ向かってくる。 瀬那は棒立ちになったまま、しだいに大きくなっていく姿を見つめている。 ついに視界が相馬でいっぱいになろうかと思った時、彼はまるで柱を避けるように、瀬那の真横を通り過ぎていった。 瞬間感じた寒気に唖然としていると、背後で鈍い音が響いた。 弾かれたように見てみれば、相馬が、建物と建物の影の中で絶命している人物に、片足を乗せて覗き込んでいた。 「……こんなところまで追ってきやがって。一人でいるからって油断したのが運の尽きだな」 ああそうか。 彼は、このような世界に生きる男。それも、高い地位にある男。 取引か何かで訪れた国で、命を狙われたのかもしれない。 そして、たった一人で倒したのだ。 相馬は死体を蹴りとばすと、また瀬那が立っている方を向いた。 今度もまた、柱を避けるように、瀬那の横を通り過ぎていく。 忘れられているのだ。 実感した途端、あたりをとりまく静寂の一部になりそうな気がした。 もし覚えられていたとしても……瀬那はもう、昔の人間。今となっては、声をかけるまでもない、まったくの赤の他人なのだ。 なぜか彼は、この現場を見た瀬那を殺そうとはしないが、それくらいどうでもいい、空気のような人間だと判断されたのだと思う。 別れは、絶対命令のようなものだった。 最後の命令にさえ、逆らうことができなかった。 最後の最後でさえ、相馬は瀬那を、意のままに動かした。 生まれついての主であった国王や王弟にさえ意見できたかもしれないことが、相馬にはどうしてもできなかった。 決して抗うことはできない。 しかし、完全な拒絶も許されない。 命令というもので縛りつける必要もないくらい、相馬は絶対的な存在だったのである。 恐ろしい日々だった。 言われるがままに行動し、夜は毎日のように夜伽の相手を務める。 昼も夜も、相馬が第一だった。行動基準は、彼の言葉だった。翔と櫂へのプレゼントのための資金を調達する時にさえ、相馬の目を気にしていた。 けれど……本当に、恐怖だけだったのだろうか。 ただ支配されていただけの日々だったというのなら。 気が休まる暇もない、永遠に続くような日々だったというのなら。 なぜ、こんなにも胸が痛むのだ。 悲しかった。 忘れていた恐怖を思い出したとか、古傷を抉られて痛かったからとかではない。 相馬が、何も言わず、まるで幻のように、遠ざかっていってしまうことが。 だんだんと小さくなっていくが、まだはっきりと聞こえる、確かな足音を、何でもないものにしなければならないことが。 身を切り裂かれそうなほどに、悲しかった。 「……相馬さん!」 瀬那は振り返り、叫んだ。 「相馬さん……相馬さん!!」 彼を狙う者がまだ近くにいるかもしれない。 こんな風に叫んだって、相馬は振り返ってくれないかもしれない。 けれど、そうせずにはいられなかった。 たとえこれが原因で、本当に相馬に殺されることになっても、彼の名を呼ばずにはいられなかった。 瀬那ですと、自分の名を叫ぶことはできない。 相馬が、居ないものにした人物の名を口にすることはできない。 だから、覚えていますかとか、そういうことも言えないし、言わない。 ただ相馬の名を、気づいてくれなくても、反応をもらえなくても、叫び続けていたかった。他のことなど、どうでもよかった。 「相馬……さん……」 馬鹿だ。 ようやく、冷静な部分が、気違いの沙汰だと思われても仕方のない衝動を止めてくれた時には、すっかり喉がカラカラに乾いてしまっていた。散々走った後に、まともな休息をとらなかったことも一因かもしれない。 首元をおさえて咳き込む瀬那は、突然の黒雲に覆われたように、暗がりの中に閉じこめられた。 期待していたつもりはなかった。 けれど……願っては、いた。 顔を上げた瀬那は、目を細めた。 本当に背の高い人だったのだ。これほど成長したのに、まだ彼は瀬那よりも大きい。月日が流れても、自分にとっては何も変わらない人なのだと、改めて思った。 怒られるかもしれない。 けれど間近で見合わせた無機質な瞳の奧に、あの獲物を捕らえるような危険な光を見つけることはできなかった。 だが、確かに捕らえられた。 長い両腕に。 「……あの……」 呼び止めたのは自分の方なのに、掠れ声しか出てこない上に、しっかりとした言葉にならない。それは、喉の痛みのせいではなかった。 よもや抱きしめられるとは思っていなかっため、心も身体も狼狽して、情けなく硬直してしまっている。抱きしめてくれた人を、抱きしめ返すこともできずにいた。 抱きしめ返す。 ふと過ぎった思考に、瀬那は驚いた。 抱きしめ返したいのだろうか、この人を? ああ、そうなのだ。 抱きしめたいのだ。 あの頃は、ただ人形のように従順に抱きしめられていただけの人を、瀬那は今、強く抱き返したいと思っている。 恐ろしいだけの日々では、なかったから。 不敵な笑みの奧に隠された優しさとか、薄情そうでありながら、本当は誰よりも義理堅い人だということとか。 あんなにも近くで生活していなければ気づけなかったであろうことを、瀬那は確かに気づいていたのだから。しかし、そのこと自体には気づくことができず、ただ相馬を恐ろしいと思う気持ちの方が強かったような気がする。 遠く離れ、長すぎる時が流れ、やっと瀬那は、あの時には頑丈な蓋をしめられていたとも言える自分の本当の心に気づけたような気がする。 「相馬さん……」 呼吸でもするように叫び続けていた名を、もう一度囁く。 何も言わず、ただじっと抱きしめ続ける相馬の温もりが、少しずつ緊張感を和らげていってくれる。 ついに瀬那は、もう何年も触れていなかった体を、両腕で抱きしめた。 途端に、相馬は瀬那の体を押しやった。 戸惑って顔を見つめたが、彼の目は、瀬那の背後に向けられていた。 「行け」 「え?」 「今日は祭りの日なんだろう?街中が、灯りと音楽と人混みで騒がしくなっている。そこへ行け」 「相馬さん?」 「そこが、おまえのいるべき場所だ」 瀬那は息を呑んだ。 相馬は瀬那から目をそらしたまま、長い指を一点に示す。 「早く行け」 立ちすくんだままの瀬那に、相馬は苛立ったような声を出す。 心よりも、体の方が臆病だった。一瞬ビクッと震え、次の瞬間には、まるで操られるように、相馬が示す方向へ向かって歩きはじめていた。 ずるい人だ。 今でもまだ、瀬那がとる行動を決めてしまうのか。 (いやだ) ここでおとなしく戻ってしまうのでは、なぜここまで追ってきたのだ。 なぜ彼の名前を何度も呼んだのだ。 なぜ彼は抱きしめてくれたのだ。 瀬那は唇を噛みしめ、背後を振り返った。 相馬は、まだ同じ位置に立っていた。 表情はない。 けれど瞳には、胸が切なくなるほどの優しさが浮かんでいた。 彼はずっと、ずっと前にも、瀬那をこのような目で見つめてくれていたのだろうか。 そう思うと、また叫びだしたくなるほどの激しい衝動が突き抜けてくる。 涙が溢れてきた。 今度、いつ会えるかわからない。 考えたくはないが、相馬がまだ今夜のように危険な日々を送っているのだとしたら、今こそ今生の別れになってしまうかもしれない。 それでも、どうしても行かなくてはならないのなら、せめてその姿をしっかりと目に焼き付けておきたいのに、次から次へと溢れてくる涙が、その邪魔をする。 しかも相馬が非情にも背を向けてしまったため、いよいよもって彼の顔をこれ以上見つめていることは叶わなくなってしまった。 軽い絶望感に苛まれて俯いていると、ふと、再び低い響きが耳を撫でる。 「泣くな。そんな風に泣かなくてもいい場所へ、早く行け」 瀬那はハッとして目を見開いた。頭を殴られるような衝撃に襲われていた。 なぜ、相馬が瀬那を無視してこの場を去ろうとしたのか。 なぜ、呼びかけに反応してくれなかったのか。 なぜ、抱きしめたのか。 すべての理由が、わかったような気がした。 「……私のことを覚えていてくださったのですか?」 返事はない。 だから瀬那は、言葉を次ぐ。 「私を、覚えていますか?」 「……瀬那だろう?」 瀬那は微笑んだ。 満足していた。 幸福感と呼べるものを感じていた。 それなのに、いっそう涙が溢れてきた。 けれど幸せを実感していた。だから、微笑んだままで、歩きはじめた。 「瀬那」と言ってくれたその声を、何度も頭の中で繰り返しながら、相馬が進むことを命じた道を、真っ直ぐに進んでいった。 「ああ、あんた!」 再びにぎやかな道に出ると、すぐにあの農民風の逞しい男と出会った。 ずっと捜してくれていたのだろうか。こちらを見つめてくる顔中に安堵がにじみ出ている。 けれど困惑も濃く滲んでいるのは、瀬那がまだ目を潤ませていたからだろう。 「まさか本当に、悪いことでも起きたのか?さっき話したことは、あくまでもこの街に昔からある言い伝えで、あの光の正体は、一年で一番見事に輝く月なんだぞ?」 必死になって捲し立てる男に、瀬那は緩くかぶりを振った。 「いいえ。確かに光の届かない、闇の世界がありましたよ」 息を吸い込むと、ぼやけた視界の中に、あの姿が浮かびあがってくる。 よかったと思った。 自分は、彼の顔をしっかりと瞼の裏に焼き付けることができていたのだ。 「けれど、光もありました」 いぶかしげに首を傾げた男の顔が、みるみる歪んでいく。 瀬那は、新たにふくれあがってきた涙の心地よい熱を感じながら、歩いている内にいつの間にか絶やしてしまっていた笑みを、再び濡れきった顔に浮かべたのだった。 本当は二つに分けてあったんですがまとめてしまいました。 当サイトに来る人は長い話に慣れているので大丈夫でしょう、きっと。 この話が第一段階だそうで。続きがあるのなら気になるところです。 切なくも素敵な小説、ありがとうございました。 |