Lip Kiss



 天気は晴れ。
 清々しい日和である。
 紫苑は街に下りてきたクリスの護衛としての責務を一瞬忘れそうになる。そもそも、今日街へ下りてきたのだって、この日和に城の中に篭っているのは嫌だとクリスがごねたからだ。
 最近本当に忙しかったし、今は急ぎの仕事なんかもないので、紫苑という護衛兼見張り付きではあるものの、街へ下りる許可が出たのだ。
「シオン、ほら、あの店見てみろよ。お前の好きそうなお菓子がたんまり並んでるぜ」
「それで、何です?」
「買わねぇの?」
「俺はクリストファー様の護衛として付いて来てるんですよ?」
「バッカ。ほしいんだろ?買えばいいじゃねぇか」
 そう言って、クリスが紫苑の代わりに財布を出した。
 すると、物凄い勢いで何かがクリスに突っ込んできた。
「うわっ」
「クリストファー様!」
 よろめいたクリスを紫苑は慌てて支えると、その突っ込んできたものを見た。人間の、子供である。さっき突っ込まれた拍子に落とした財布をその子供は拾い、逃げ出した。
「あのガキっ!!紫苑、追いかけるぞ!!」
「はいっ」
 クリスの言葉に頷き、紫苑はその子供を追いかける。まだ十代前半といったところだろう。路地の方に逃げ込んでいくのを走ってついていく。
「畜生っ、逃げ足の速いガキだ!」
「クリストファー様、あっちです!」
 見失いそうになるのをギリギリのところで追いかける。本当にやたらとすばしっこい。
 暫くその追いかけっこは続き、やっと袋小路に追い詰める。
 息を乱しながらも、やっとのことで立ち止まったその子供に、クリスは詰め寄る。
「ほら、返せよ、財布」
「やーだねっ」
「何だと!?」
「いいじゃん、財布ぐらい。王様がケチくさいこと言うなよ」
「ケチで悪かったなぁっ」
 クリスは今にも子供に掴みかからんばかりである。怒る気持ちも解かるが、流石に手を上げる訳にはいかない。
「クリストファー様、落ち着いてください」
「けどよ…」
「ねぇ、アンタ、王様なんだから顔広いよね?」
「あ?」
「人、紹介してくれたら、返してやるんだけどなー」
「そっちが目的か、ガキ」
「ガキじゃねぇよ、オジサン」
「俺はまだオジサンって呼ばれるような年じゃねぇぞ!シオンなら兎も角!!」
「クリストファー様…」
 その子供と同レベルで会話するクリスに紫苑は思わず溜息を吐く。
 とりあえずクリスを押さえ、紫苑が会話する事にした。
「しかし、人を紹介するとはどういうことだ?」
「だって、王様なんだから知り合い多いんだろ?俺の要求に合う人間だって知ってそうだから」
「要求?」
「背が高くて、強くて、カッコよくて、優しくて、紳士的で、言う事なんでも聞いてくれる人」
「随分具体的だな」
「そういう人紹介してくんなきゃ財布は返さないよ」
 子供はぷいっと横を向いて言う。
 クリスは紫苑の隣で溜息を吐いた。
「じゃ、こいつはどうだ?背が高くて強くて優しくて、言う事なんでも聞いてくれるぞ。カッコいいかは個人の趣味だけどな」
「こんなおっさんヤだ」
「ちっ」
 さっきからあんまりなことを言われている気がするが、問いただしても意味がない。今更である。
「背が高くてカッコよくて言う事なんでも聞いてくれる?贅沢言ってんじゃねぇぞ。そんな人間居るわけが―――…」
 文句を言っていたクリスの言葉が途中で途切れ、考え込む。そして、ふと視線を紫苑に向けた。何だか、嫌な予感がする。
 そして、クリスはニヤッと笑って言ったのだった。
「なぁ、一人だけ居るぜ、お前の要求に合いそうな奴」
「ホントに!?」
「ああ、背は百八十以上あって、十人中九人は間違いなくカッコいいって言う、強さは折り紙つきの、優しくて、気障な台詞も平気で言えるぐらい紳士的で、結構若いくせに忠犬根性しみついた言う事何でも聞いてくれる奴」
 随分内容が具体的になった。これはもう一人のことを言っているとしか思えない。
「クリストファー様!まさか…」
「何だよ、そうじゃなきゃ財布返してくれねぇんだから、仕方ねぇだろうが」
「それはそうですが…」
「じゃ、呼んで来いよ。俺はこのガキが逃げねぇように見張ってっから」
「…はぁ……」
 紫苑は仕方なしに頷いた。
 気は進まないが。
 そうして紫苑は足早にその場を去り、目的の人物を呼びに出掛けたのだった。




「お、来た来た」
 その場に戻ってくると、クリスは楽しそうにこちらを見た。
「ほら、あいつだよ、どうだ?」
「…っ合格!!」
「よしっ、これで決まりだな!!」
 クリスとその子供は嬉しそうに頷きあった。
「シオン中将?一体どうしたんですか?」
 問い掛けてくるセナに、紫苑は苦笑いを洩らした。
「財布を取られたんだ、その子供に。それで、人を紹介してくれたら返すと言うんでな。それで、その子供の言う条件に見合うのはお前だとクリストファー様が…」
「はぁ。それで、私は何をすればいいんです?」
 紫苑の説明に、セナは少し途惑っていたようだが、その子供に聞き返した。
「一日だけ、俺とデートして」
「は?」
「なっ」
 その子供の言葉に、セナは思わず疑問を返し、紫苑は慌てる。
「一日だけ、俺のものになって、デートして」
 その要求に、セナは困ったようにクリスを見た。
「一日だけの限定って言うんだから、別にいいだろ。今日一日こいつを主人だと思って尽くせばいいんだよ。俺の命令。了解?」
「解かりました」
 クリスの言葉に、セナは頷く。紫苑は最早言葉も出て来ない。
 セナはその子供の前に膝を付いた。
「初めまして、セナと申します。今日一日は、貴方は私の主人です。お名前を教えていただけますか?」
「シキ」
「シキ様、ですか。とても素敵なお名前ですね」
 微笑んで言うセナに、その子供、シキはぽーっと顔を赤くした。
「それではまず、何を致しましょうか?」
「う、うんっ。じゃ、あっち、あっちの店、行こう!」
 シキはセナの腕を引っ張って行った。紫苑とクリスがその場に残される。
「クリストファー様、財布は…?」
「デートが終わるまでお預けだろ」
「…」
「妬くなよ、ガキ相手に」
「…」
「ほら、後つけるぞ」
「はい」
 紫苑は頷き、クリスと共にシキとセナの後を追いかけていった。



 セナは本当に命令に忠実に、シキによく尽くした。優しく支え、穏やかに微笑み、少し困っているようなら腕を差し伸べる。
 本当によく出来た人物だと、誰もが思うだろう。
 しかし、その様子に紫苑はどうしようもなく嫉妬せずには居られない。例え子供といえど、そんな風にセナと接しているのを見るだけで、紫苑の胸は焦げてしまいそうだった。
「おっさん…」
「なんでしょう?」
「外面モード全開にしてるセナに何も其処まで心配することねぇだろ?」
「で、ですが…」
「つーか、意外と独占欲強かったんだな、お前」
「返す言葉もありません」
 そう、セナはクリスの命令に従っているだけである。だから、こうしてセナがシキに優しくするのは命令故であって、セナ自身の感情とは直結しない。
 しかし、そう解かってはいても、どうしようもないのだ、この感情は。
「セナ、今度はあっちへ行こう!」
 楽しそうにシキはセナの腕を引っ張っていく。セナは大人しくそれに着き従う。
 そして紫苑とクリスはその後をつける。
 それを夕方までずっと続けていた。


「ね、セナ。これが俺の最後のお願い。セックスしよう」
「…」
 シキの言葉に、紫苑は固まる。脳細胞全てがこの現実を拒否していた。
「おー、其処まで言うとは、やるじゃん、あのガキ」
「……」
 紫苑は最早言葉も出ない。
「おーい、シオン?」
「…」
「ダメだな、こりゃ」
 クリスは深々と溜息を吐いて、また二人の様子を伺う。
「ね、セナ」
「シキ様、それは出来ません」
「何で?命令だよ!今日一日は俺に付き合うって言ったじゃないか!!」
「はい。ですが、例え命令でも、それだけは従う訳にはいきません」
「何で?俺に魅力がないから?だから抱いてくれないの?」
「いいえ。そうじゃありません。ですが…」
「だったら、俺を抱いてよ!何でダメなんだよ!!」
 シキは癇癪を起こし始めている。
 セナはシキの視線に合わせて屈み込み、肩に手を乗せた。
「例えそれが命令でも、例えその所為で殺されようと、それだけは従う訳には行かないんです」
「恋人が…居るんだ」
「はい」
「じゃぁ、その恋人を殺すって言ったら?」
「それは仕方がありませんから付き合いますよ。ですが、貴方はそんなものが欲しい訳ではないでしょう?当て付けならもう十分でしょう。本当に望む相手以外と抱き合うと後悔しますよ。それがはじめてなら尚更に」
「セナ…当て付けって、気づいてたんだ…」
 シキの言葉に、セナは微笑む。
 その会話でようやく紫苑は冷静さを取り戻した。何とかそのシキの無茶な願いは通らずに済みそうだ。しかし、当て付けとは何だろう?
「ほら、あちらで心配そうに見ていらっしゃいますよ」
 セナの言葉と、視線に釣られてシキはそちらを見る。紫苑も同様にその視線の先を見る。その先には黒髪の少年が居た。
 シキとセナがこちらを見ているのに気づいたのか、その少年が二人に近寄る。
「ほら、行きなさい」
「セナ…」
「彼は貴方をずっと心配して見ていたんですよ?それで十分でしょう?」
 何もかも理解しているような、セナの言葉にシキは頷き、その少年に駆け寄った。
「カイン!」
「シキっ、あの、お前…っ」
「ごめん、カイン。でも、カインが悪いんだよ。もう付き合って随分時間が経つのに、ちっとも手をそうとしてこないし、だから、俺…」
「うん、シキ、ごめん。シキを不安にさせたのは謝るよ。でも、俺シキじゃないとダメなんだ。シキが他の誰かと一緒に居るなんて嫌だよ…」
 それから二人はしっかりと抱き合った。
 なんとも人騒がせなカップルだ。しかし、またそれだけ追い詰められても居たのだろうが…。
 随分長い間抱き合っていた二人が離れると、シキはセナに駆け寄る。
「はい、これ。王様にごめんって言っといて」
「直接言ったら如何です?」
「ヤだ」
 財布を渡して言ったその言葉に、セナはくすりと笑う。
「セナは、一番最初、好きな人とセックスできた?」
「私は…残念ながら。ですから、余計に理解出来るのですよ。初めの一度というのは、何よりも変えがたいものです。その人を好きでいる限り、最高の思い出になりますよ」
「うん」
 セナの言葉に、シキは素直に頷いた。
 実感の篭った台詞は、それだけに影響を与えたようだった。
「あっちの王様たちも、ずっと俺たちつけてたよ。セナが心配だったんだよね?」
「そうですね…」
 シキがこちらを見てくる。気づかれていたのも無理はないと思うが、それなりにショックである。どうしようかと思っていると、クリスが一つ紫苑の肩を叩いて出て行った。紫苑はそれを追いかける。
「それじゃ、俺たちかえるね」
「ええ、お気をつけて」
「あ、そうだ。セナ」
「はい?」
 シキが腕を引っ張るので、セナがしゃがみ込む。
 すると、シキはセナにキスをした。勿論慌てたのはカインと紫苑である。
「シキっ!!」
「ね、セナ。俺多分、カインが居なかったらセナを好きになってたよ。バイバイ」
 そう言って釈然としない雰囲気のカインを引っ張って帰っていった。
 セナはその二人を見送り、苦笑いを洩らした。その様子が尚更紫苑の苛立ちを募らせる。
「やるなぁ、アイツ」
「クリストファー様!」
 感心したように言うクリスに紫苑は怒鳴る。が、その程度でクリスが気にする筈もない。
「じゃ、俺はこれで帰るから。お前ら、ゆっくりして来いよ」
「クリストファー様?」
 疑問を返すセナに、にやっと笑いながらクリスは囁く。
「おっさん、かーなりキてるから、セナ、気をつけろよ」
「は?」
「クリストファー様!!」
「じゃぁな」
 文句を言おうとする紫苑を無視して、クリスは軽く手を振り帰っていった。セナは訳が解からず紫苑の顔を見る。
「シオン中将?」
 紫苑は、その何も解かっていないセナの顔が腹立たしく、腕を掴んで、強く引き寄せキスをする。
「シオ…んっ…ふ……」
「キスなんてされて、どうしてそう平然としているんだ?」
 紫苑の問いかけに、セナは軽く目を見開いた。
「子供のしたことにいちいち目くじらを立てていても仕方がないでしょう?」
「本当に子供だと思うのか?」
「シオン中将…?」
「全く、どうしてそう無自覚なんだ。あいつにはちゃんと恋人が居たから良かったが、もしそうじゃなければ…」
 本当に、シキがセナを好きになっていたら、多分紫苑の理性など当てにならない。セナが誰かに思われていることすら腹立たしくなる。
 そんな紫苑の感情を、セナは全く理解していない。きっと、セナはそんな風には思わないのだろう。紫苑が誰に想われようと、紫苑が誰を想おうと、それで諦めなければならなくなったら諦めるのだ。そう思うと、無償に腹立たしい。
「嫉妬で、どうにかなってしまいそうだ」
「シオン中将…っ」
 セナは驚きに目を見開く。
 紫苑にそんな感情があるとは思わなかったのだろうか?それとも、紫苑の感情を未だに信頼していないのだろうか?もしそうなら、いくらでも教えてやる。
 紫苑はセナの腰を抱き寄せ、首の後ろに手を回してキスをした。
「んっ…ふ…ぅ…っ…んん…っ」
 セナは慌てて抵抗しようとするが、体をしっかりと押さえているのでそれもままならない。頭を動かないようにしているので拒絶も出来ない。
 紫苑はセナの口内に舌を差し入れ、セナのそれを絡め取る。思わず逃げようとする舌を捕まえて強く吸うとセナの体がびくっと震えた。
「んぅ…ふっ…んっ………ぁ…」
 セナが時折洩らす息が段々甘くなってきて、抵抗しようとした手から力が抜けていく。いや、むしろ体を支えようと、縋り付いてきていた。
「ぁ…っふ…ゃめ…っ…此処は、街中ですよ…っ」
 一度口唇を離すと、セナは周囲を気にしながら言う。
「それがどうかしたか?」
「どうかし…っふ……ぅ…」
 再度何か言おうとしたセナの口を塞ぐ。
 セナが紫苑の袖をぎゅっと握ってくる。最初は戸惑い、拒絶していた舌も応えてくるようになった。そう、何もかもかなぐり捨てて、紫苑のことだけを考えればいい。
 他には何もいらない。
 ただ、紫苑のことだけを見つめて、紫苑のことだけを感じていればいいのだ、今は。周りのことなど、関係ない。
 セナの膝ががくがくと震えている。紫苑は尚更強く腰を抱く。
「ぅ…んっ…ふ…っ…ぁ……」
 飲み下し切れなかった唾液がセナの口の端から溢れる。
 切なげに眉を潜めた顔が堪らなく愛しい。
 セナの体から完全に力が抜けた頃、ようやく紫苑はセナを解放した。離れた口唇から銀糸が名残惜しげに後を引く。セナの唇は濡れて、赤くなっている。薄紅に染まった頬や、潤んだ瞳が誘っているようにしか見えない。
 しかし、流石にこれ以上先に進む訳にもいかない。
 紫苑は苦笑いを洩らした。さっきのキスで自分の怒りも大分収まったようだ。
「セナ…」
 名前を呼ぶと、息を乱しながら、セナが紫苑を見上げる。
「お前は俺のものだ。これから先もずっと。お前が誰かに好かれていると思うだけで嫉妬してしまう。誰かに触れられただけで気が狂いそうなんだ」
「シオン…中将…」
「だから、セナ…例え誰であろうと、その唇に触れるのは俺だけだ。いいな?」
 最初は驚きと戸惑いに目を見開いていたセナだが、意味を理解した途端に微笑み、頷いた。
「はい、シオン中将。私が愛しているのは、貴方だけですから」
 その言葉を聞き、紫苑はもう一度、セナにキスをした。



Fin





小説 B-side   Angel's Feather TOP