夢の庭



 水の精霊を手に入れ、次は土の精霊、となる頃には皆それなりに戦いに慣れてきて、油断が出てきても不思議はないだろう。
 俺はそれを危ぶんでいたが、その予感は的中した。
 ちょっとした油断から、翔が敵の攻撃をとても避けきれずマトモにくらおうとした時、セナが咄嗟に庇いに入った。
「危ないっ!!」
「水落先生!」
 その敵の攻撃はセナの背中を大きく切り裂いた。
「くっ」
 セナは短くうめき声を上げ、その場に倒れた。
「先生っ!」
「くそっ!」
 翔は急いでセナを抱き上げ、クリストファー様はすかさず敵に攻撃して倒した。
 セナの傷は深い。誰の目にも痛々しく見えた。
「杏里、フルートを!」
「う、うんっ」
 翔は悲痛な声で千倉に言う。千倉は頷いてフルートを吹いた。
 傷は塞がったが、セナは目を醒まさない。
「…毒か」
 クリストファー様が呟くように言う。
「解毒薬は?」
「ダメだ、切れてる」
「そんなっ!!」
 翔の声は今にも泣き出しそうだった。自分を庇ってセナがこんな目にあったのだ、当然だろう。
「急いで宿に戻るんだ」
 そう言って俺はセナを抱き上げた。
「東堂先生…」
「嘆いている時間が勿体無いだろう。行くぞ」
「はい」
 心許無げな翔にそう言うと、きっと表情を改めて頷いた。
 セナは身長の割りに軽かった。無駄な肉はついていないとは言え、それでも軽すぎるように思えた。しかし、そんなことを考えても仕方ない。歩きやすいように背に乗せると、街へと急ぐ。
 怪我をした直後は多少意識が残っていたが、今は完全に気絶してしまっている。傷が深かった分、毒の回りが早いのだろう。首筋にセナの熱い息が掛かる。それを感じて尚更足は速くなった。




 宿につき、セナをベッドに寝かせ、解毒をすませると、やっと皆息を吐いた。
 医者に聞けば、暫く熱は残るだろうということだった。解毒が遅れたのだ、仕方がない。そう思っても悔しさが滲む。
 反省する点は沢山ある。戦いに対する油断、道具の不備。咄嗟の時の処置に対して余りにも弱すぎた。しかも、毒を取り除ける魔法を使えるのはセナだけだった。その当人が倒れてしまえばどうする事も出来ない。
「明日は一日休みだな」
「逢坂先輩…」
「あまりショックを受けてても仕方ないだろ。もう命に別状はねぇんだ、俺たちも休まないと、後が辛いぞ」
 千倉と櫂はもう部屋に戻って休んでいる。
 今回誰よりも責任を感じているだろう翔が、セナから離れようとしない。クリストファー様はその翔の様子に溜息を吐いた。
「シオン、俺は先に休んでるからな」
「はい、お疲れ様です」
 クリストファー様は俺に声を掛けて部屋を出た。翔は俺が何とかしろ、ということなのだろう。
 翔はセナのベッドの傍に座り、熱で息の荒くなっているセナを見つめている。悲しげに。
「羽村、お前も今日はもう休め」
「でも、水落先生は俺の所為で…っ!」
「だからと言ってお前がそうやって気に病んでいれば、セナはそれ以上に気にするだろう」
 そう、セナはそういう男だ。自分がした行為に翔が責任を感じるのは無理がないとしても、それが重荷になるような事があれば、気にしない筈はない。
「東堂先生…でも、俺、俺は…」
 翔の顔が泣きそうに歪む。
 そこで俺はようやく悟った。翔はセナが好きなのだ。俺がクリストファー様を好きなように。セナが俺のことを好きなように。
 だからこそ、好きな人に自分の所為で怪我をさせてしまったことに、身を切られるように苦しんでいるのだ。翔のもともとの性質の優しさと合わせれば、それも当然だろう。
 だからと言って、それでは逆にセナの負担にもなる。翔を休ませない訳にもいかない。
「羽村、此処にいても何も変わらない。セナについていてやりたいお前の気持ちも解かるが、今夜は俺が此処にいる。お前も休むんだ。セナが目を醒ませばすぐに呼んでやるから」
「東堂先生…」
「お前がそんな顔してたら、セナが余計に心配する。それぐらい解かってるだろう。これ以上セナに負担をかけたくないなら、今日は部屋に戻るんだ」
「……はい」
 完全に納得した訳ではないだろうが、翔はそれでも頷いて、部屋を出て行った。
 俺は溜息を吐いた。
 人の感情とは、どうしてこうも上手くいかないものなのか。
 皆片想いで、上手くはいかない。
 最初にセナに付き合わないかと言われた時は驚いたと同時にいぶかしんだ。遊びで人と付き合えるような人間ではない。そう思っていたし、今もそれは変わらない。そして数日前、NOと返事をしようとした時、震える声で「聞きたくない」と言った。
 そうしてようやく理解した。セナは俺のことが好きなのだと。だからこそ報われもしないこんな関係を持ちかけた。そして、その時は衝動的にセナを抱きしめた。触れた肌を今でも覚えている。
 あの時から…否、あの関係を持ちかけられた時からずっとセナのことばかりを考えている。微笑を浮かべながら、さも遊びなれたように振舞いながら、あの話を持ちかけてきたセナ。
 何を考えているのかと、気になって仕方がない。俺のクリストファー様に対する気持ちは知っているのだから、報われるとは最初から思ってはいないのだろう。だからこそあんな関係を持ちかけたのだろうから。
 でも、だからと言って…。
「ぅ…っ」
 セナがうめくような声を出した。それにはっとしてセナを見る。
「セナ?」
 目を醒ました訳ではないようだ。
 荒い息でうわ言のように言葉を紡ぐ。眉を寄せ、悲しげな表情で。
「…とぅ…さ……おか…さん……ごめ…ん…なさい…」
 その言葉にはっとする。幼げな口調に幼少の頃の夢を見ているのだろうと解かる。養父母に対するものか、実の両親に対するものなのか。実の両親に対してだろうと直感的に思う。
「ごめ…なさ…」
 その伏せられた瞼の下から一滴涙が零れた。
 両親はセナが幼い頃に亡くなった筈だ。その両親との思い出がどれほどのセナの記憶に残っているだろう。
 セナの両親は黒い翼との戦いで亡くなったのだとセナ自身が言っていた。しかし、国王付きと王妃付きなら、二人を守って亡くなったのなら、たった一人の子供であるセナには沢山の報奨金が残されただろう。しかし、養父であるダナイも、セナ自身もいかにも質素な暮らしをしていたことを覚えている。それに、国王は兎も角、王妃は滅多に城の外には出ない。あの頃は黒い翼もまだ反乱を起こしてはいなかったし、城に入ってくる事もなかった筈。
 だとしたら、セナの両親は、国王、王妃と離れている時に殺された事になる。一番可能性があるのは、子供のいる、セナのいる自宅に帰った時。
 あくまでも想像の範疇は超えないことだが、それでも俺は半ば確信していた。
 セナは、目の前で両親を殺されている。クリストファー様と同じように。そして、両親を救う事が出来なかった自分を責め続けている。熱に浮かされての謝罪の言葉は、そういうことなのだ。
 幼いセナにそれはどれほどの影響を与えただろう。ダナイに引き取られたとしても、セナの性格からすれば素直に甘える事など出来なかっただろう。両親の死に責任を感じているのなら尚更だ。そして、王弟殿下付きの近衛兵として人間界に行き、思慕を抱いた王弟妃も守る事が出来ず先立たれ、たった一人人間界に取り残されて。
 王弟妃と双子を守ると約束して、そのためだけにずっと生きてきたのだ。否、そう約束しなければ、セナは生きる事が出来なかったのかも知れない。守るべき人を守る事が出来ず、そしてたった一人人間界に取り残されれば…酷ではあるが、あの約束がなければ、セナは疾うに生きる事を放棄していただろう。
 自分の命に対する執着心が薄いと感じる事が度々あった。
 それでも、その約束を守るために生き続けた。その約束があったからこそ、セナはこの世に生を置き続けたのだ、何としても。何をしても。例え、自分自身のプライドさえ捨てたとしても。それでも、その約束のために生き続けたのだ。
 それが、セナにとってのたった一つの命綱だったのだろう。それに縋る事でしか自分の生を許す事など出来なかったのだろう。人に尽くす事が悪い事だとは思わない。俺だってクリストファー様のためなら命を投げ出す覚悟がある。
 しかし、セナは違う。自分の命は始めからどうなろうと構わないのだ。ただ、あの約束があるから、その命を捨てる場所を限定させただけなのだ。自分のために生きる事など、端から放棄している。否、そんな考えなど、持つことは許されなかったのだろう。
 自分自身のために生きる事など、セナには出来なかったのだ。
 セナは優しい男だ。優しいからこそ自分を殺してしまう。
 そのセナが俺に言ってきたあの申し出は、セナが自分に許せる、自分のために出来る精一杯だったのではないのだろうか。
 もし、そうだったとしたら…。
「そうだったとして、俺に何が出来る」
 声に出して言う。
 俺はクリストファー様が好きなのだ。その筈だ。でも、今俺はセナを愛しいと思い始めている。悲しげな心を愛しいと思い始めている。
 クリストファー様に対する、恋情は最近意識することはあまりなくなった。
 考えるのはセナのことばかりで…。
 俺は、疾うにセナのその悲しい心に魅せられていたのかもしれない。泣きたくとも泣く事も出来ず、微笑みを浮かべながら心で己を責め、泣き続けるその綺麗過ぎる心に。
「ぅ…ぁ、あっ…」
「セナ?」
 ふと、セナの様子が変わった事に意識を現実に引き戻す。
「ぁ…ぃゃ…・や…ぁ、ぁああ…っ」
 一体何の夢を見ているのだろう。苦しげにうめくセナに座っていた椅子から立ち上がる。
「セナっ!」
「ぁ、ああっ…ゃ…っ」
「セナ、しっかりしろ、セナっ!」
「ぅ…ぁっ……」
 肩を掴んで揺り起こす。俺の怒声に、セナははっとしたように目を見開いた。
「シオン…中将…?」
 掠れた声だが、意識はしっかりしているようだった。その様子に俺はほっと息を吐いた。
「セナ、大丈夫か?」
「…?…此処は?」
「此処は宿だ。翔を庇って怪我をしたんだ、お前は」
 訳が解からず辺りを見回すセナにそう言うと、やっと記憶が現実に追いついたのか、はっとしたように俺を見る。
「翔は?彼は大丈夫なんですか?」
「ああ。お前が庇ったからな。怪我はない」
「…そう、ですか…」
 ほっと息を吐いて微笑んだ。倒れたのは自分だというのに、起き抜けに人の、翔の心配をする。それがセナらしいとも言えたが、さっきの考えを引きずっている俺はそれが物悲しくも思えた。
「怪我をしたのはお前なんだ。もう少し自分の心配をしたらどうなんだ?」
「私の事は、いいんです。例え自分がどうなろうと、翔を守れなければ、今まで生きてきた意味がない」
 それは、そうだろう。
 ずっと翔と櫂のために生きてきた。二人を守れなければ、今まで必死で生きてきた自分の人生全てが覆されるに等しいことだろう。
 だからと言って…。
「だからと言って、お前の事がどうでもいいという事にはならないだろう。お前が傷つけばみんな心配するし、翔はお前が自分のせいで怪我をしたと責任を感じている」
「シオン中将…」
「お前が、翔や櫂のために生きるのは仕方がない。だからと言って、お前自身を蔑ろにして良いわけではないだろう。お前がそんな風に生きていて、二人が喜ぶと思うのか?」
 俺の言葉に、セナは顔を伏せた。
 俺も、自分の言葉が強くなりすぎたことに気づいた。相手は怪我人だ。それを強く責めてどうする。何よりも、セナはそれ以外の生きる目的を知らない。
 俺は気持ちを落ち着けようと息を吐いた。
「兎に角、翔の事は心配ない。今は自分のことを第一に考えて養生するんだ。出発は明後日にするとクリストファー様もおっしゃっていたから」
「すみません…」
「謝るな。お前が悪い事をした訳じゃない。皆が油断してきているのを知っていて注意を促さなかった俺も悪いし、解毒薬が切れていた不備もみんなの責任だ。お前が翔を庇いに入らなければ、それこそ命に関わっていただろう」
「シオン…中将…」
 セナは不安そうに揺れる瞳を俺に向ける。そんな顔を見せるのは、まだ熱があるからだろう。そうでなければ、セナは俺にすら負担をかけまいと気丈に振舞う。
 それが悲しかった。俺の前でだけでも、弱さを見せてくれればいい。悲しみに満ちた心を覆い隠す殻を取り去ってしまいたい。
 そう考える自分に俺は笑った。
 そう、答えはもう出ている。俺はセナが好きなのだ。
 その心を見たいと思う。その隠された本心を見たいと思う。セナの真実を、全てを知りたいと思う。ずっと一人で生きてきたセナを支えてやりたいと思う。露になったその心も全て、抱きしめてやりたいと思う。不器用で、甘える事の出来ないセナを思い切り甘えさせてやりたい。
 そう思うことが既にセナに心囚われている証拠だ。
「シオン中将?」
 黙りこんでしまった俺を不信に感じたのか、セナが声を掛ける。俺は咄嗟に気になっている事を聞いた。
「セナ、さっきはお前、どんな夢を見ていたんだ?」
「夢…?」
「随分うなされていたから…」
「……夢、ですか?」
 解からない、という風に首をかしげる。その瞳がふっと暗くなるのを感じた。
「セナ!」
「え?」
「…大丈夫なのか?」
「何がです?」
 咄嗟に強く声を掛ければその瞳に明るさが戻った。心配して尋ねてみれば、きょとんとした顔をして聞き返してくる。
 解かっていないのか。自分がどんな状態だったか。
 無意識に。
 俺自身もよくは解からなかった。しかし、その状態がいいものだとは思えなかった。ひょっとしたら、セナの中に隠されているのは、俺が思う以上に重く苦しいものなのかも知れない。
 セナすら自覚していないほど、重いもの。
「シオン中将?」
「ん?」
「夢…なんですが…何を見ていたか全く覚えていないんです」
「あんなにうなされていたのにか?」
 悪い夢と言うのはより意識に残るものではないのだろうか。
「ええ…」
「まぁ、覚えていないならその方がいいだろう。悪い夢なら尚更だ」
 まだ追求する事も出来たが、それはやめた。それがいい事だとは、とても思えなかった。知らないのなら知らないままの方がいいこともある。
 セナは不思議そうな顔で俺を見ている。そして、何処か不安そうな顔で。
 そんな顔を見せるのは、熱があるからだ。熱で潤んだ瞳と、熱い息。誘っているようにすら思える。そう、こんな風になっているのは熱があるから。
 それが解かっていても、俺は誘惑に抗えなかった。
 セナの髪を優しく撫でた。サラリとした感触が心地よく、しかし少しでも肌に触れれば熱気が感じられた。
「シオ……んっ…ぅ…」
 俺の名前を呼ぼうとしたセナに口付けた。舌を差し入れれば口内は熱く、熔けるように甘い。その甘い唇を、俺は思うように貪った。
「ふっ…んんっ…ぁ…んぅ……っ」
 セナは熱い息を洩らしながら俺のキスを受け入れた。
 それがたまらなく愛しい。口唇を離すと、俺はセナをきつく抱きしめた。
 その背がびくっと震えた。その行為にさえも感じているようだった。それが尚更愛しく、さらに腕に力を込めた。
「…シオン…中将?…ぃたっ…」
 苦しげに痛みを訴えられて、俺はようやくセナを解放した。けれどまだ足りない。抱きしめたい。もっと強く、強く。この世界の全てからセナを隠してしまえるほど強く。誰の目にも触れない場所で、ただ暖かく安らげる場所に、一生セナを隠してしまいたい。何も考えずに、その暖かさにゆっくりと眠れるような場所に。
 だが、それは無理な話だ。セナは一生王弟妃との約束を背負っていくだろう。今更それを放棄するなんてことは考えられない。それは俺だって同じだ。これからもずっとクリストファー様をお守りしていく、それは決して変わらない。変えられない。
 でも、そう願ってしまう。セナを何の苦しみも、痛みも、悲しみもない場所に連れて行ってやりたい。例えセナがそれを望んでいなくとも。例えそれが俺の傲慢な考えだったとしても。
 でも、今は、取りあえず、今は…。
「もう、ゆっくり休めよ。また魘される様なら起こすから」
「…はい」
 俺の言葉にセナは柔らかく微笑んだ。こんな笑顔は普段見る事はない。セナはいつも穏やかに微笑んでいるが、決して、それ以上誰かを踏み入れさせる事はなかった。
 これが、この笑顔が素顔なら、いつもそうして笑っていられるようにしてやりたい。
 横になったセナの瞼の上に俺は手を乗せて、瞳を閉じさせた。間もなく、やすらかな寝息が聞こえてきた。
 セナは、幸せになるべきだろう。誰よりも。今まで人のために生きてきて、これからもきっとそうやって生きていくセナに、幸せになる権利がないとは思えない。
 本当は、誰よりも幸せにならなければならない人間なのだから。今までの悲しみも苦しみも思い出に変えて、幸せにならなければならないのだ。
 そうでなければ、あまりにもセナの生は悲しすぎる。
 願わくは、俺がその幸せを与えてやりたい。
 この腕に抱きしめて。



Fin





小説 B-side   Angel's Feather TOP