大きく開かれた窓の外には、穏やかな日差しの中に佇むセナの姿が見えた。 城の方に来てから一日、ほとんどの時間をそうやって庭園で過ごしている。レイヤードはその姿を見ながら笑った。 「全く、最近何をしていたのかと思ったら…」 「余計なことをしましたか?」 「いや。しかし、どういう手を使ったのかは気になるな」 レイヤードの後ろに控えるランはその姿を見ながら笑みを浮かべた。 「それは知らなくてもよろしい事ですよ。あの男には元々此方側にくるだけの素質があった」 「随分、気に入っているようだな」 「見ていて飽きないでしょう?あれは」 「まぁ、確かにな」 ランの言葉に、レイヤードは頷く。 いつもいつも、そうやって庭園で過ごしながら、空ろな瞳を何処かに投げかけている。何もしない、何も変わらない。だが、その姿は見る者の目を惹いた。 惹かれずには居られない空気がセナを纏っていた。 「だが、いつまでもあれでは、使えないだろう」 「例えあんな状態でも使い道はいくらでもあります。何もしないからこそ盾になる。彼らは仲間だったあの男を攻撃することは出来ないでしょう。向こうが何もしてこないのなら尚更に」 「盾など必要ないと思うがな」 「ええ…ですが、わざわざ戦うよりは余程手間が省けてよろしいでしょう?」 ランの言葉にまたレイヤードは視線をセナに戻した。 相変わらず何処を見ているとも知れない瞳で庭園に佇んでいる。そして、傍には必ず青い鳥がいる。決してセナの傍から離れる事はなく、セナもそれを拒絶することはない。 否、それがなければ尚更、セナの崩壊は早まるだろう。心はどんどんと崩れていく。ランにはそれが解かっていた。終いにはただの人形になる。 ランはレイヤードに暇を告げ、部屋から出た。 庭園に居るセナの元に向かう。 「……セナ」 名前を言う。どうも違和感が拭えないが。 しかし、名前を呼ぶと、セナの視線はランに焦点を結ぶ。その時だけが、しっかりとした視線でセナは何かを捉える。 「ラン」 名前を呼ぶ。 この瞬間の優越感は普通では味わえないだろう。何より元は強い男だ。段々と足元から崩していき、ついにはその世界にはランしか居ない。 だが、このままでいい筈もない。今のままではランまでもを遮断しかねない。 心を此方側に落とすと同時に、自分の行為に嫌悪感を覚えてしまう。何よりも、味方だった彼らに攻撃したことは、此方側に落ちる決定打になると同時に、深く己に対する猜疑心をも植え付けた。 セナが何よりも信用できないのは己の心なのだ。 「冷えてきた。中に戻れ」 「もう少し…」 「ん?」 「もう少し、此処に居させてください」 「…」 セナの言葉にランは溜息を吐いた。 ランは、セナが己の心に何を見ているのか、手にとるように解かる。形は違えど、何処か似ているところがある。心の奥深くにある闇が、ランにとって欲しい物だった。 だから手に入れた。 しかし、今のままでは、確かにダメになる。心を捨てた人形など、ランはいらない。レイヤードにはあんな事を言ったが、この男を此処に連れてきたのは盾にするためではない。 セナを、完全に此方側に引き入れるためだ。まだ迷いがあるからこそ、セナはこうして自分の心を閉ざしている。 早いうちに、決着をつけなければならないだろう。 ランは振り返る。 窓には相変わらずレイヤードが居て、こちらを見ていた。 「中に入れ。夕食を終えたらまた来ればいい。もう少し厚着をしてな」 「私は…」 「何だ?」 「私は、本当に貴方にとって必要な人間なんですか?」 「必要でなければ、こんな所まで連れては来ない」 これはランの本心だった。その言葉に、セナは視線を伏せた。 「ほら、行くぞ」 ランはそう声をかけ、踵を返し中に戻る。その後をゆっくりとセナは着いて来た。 この男にとって昼の光に当たる事も、夜の闇に紛れる事も、どちらもが苦しいことなのだろう。しかし、まだ夜の安息の方が多い。だからこそ此処に居る。 闇の中で過ごしている時間が長かった所為だろう。子供が一人で生きていくにはそんな裏社会に身を浸すしかない。 あの子供が…。 正義という名ではなく、ただ自分が守る者のためにだけ尽くす一途さは確かに近衛兵としては素晴らしい素質があるだろう。だが、だからこそ危ない。 一度闇に浸れば其処から崩れていく何かがある。守る者を無くせば尚更だ。 その危うさに惹かれる自分もまた、危うい存在なのだろう。 ランはそう自嘲した。 痛い。 いろんなところが痛くて仕方がなかった。 身体には傷一つなくても痛くて仕方がなかった。 深い喪失感にどうしようもなくなる。 翔は溜息を吐いた。 いつの間に、そんなに大きな存在になっていたのだろう。セナはあまり自己主張をする事はないけれど、いつも見守ってくれている、そんな安心感を与えてくれた。 セナが居るから大丈夫だと。 強くて、カッコよくて、冷静で。だから、大丈夫だと思っていた。セナの弱さになんて気づかずにただ信頼して、甘えていた。 だから、居なくなってしまったのだろうか? 甘えてばかりいたから。 だから、居なくなってしまったのだろうか? 理解しようとしなかったから。 ずっと自分と櫂を見守ってきてくれて、きっとその為にいろんな苦労をしただろう。何しろ、翔たちの両親が亡くなったのはセナが十二歳の時。 十二歳の子供が、一体どうやって一人で生きてきたのか、翔には想像もつかなかった。 今の自分よりも年下で。今の自分でさえ、きっと一人で生きていくには大変だろうに。セナは、それよりも幼い頃からずっと一人で生きてきて、それだけじゃなく自分たちを見守ってくれていて。自分だって苦労したくせに、櫂を助けられなかった事に責任を感じて。 優しすぎる人。 もっと、自分は苦労したんだと見せ付けたっていいのに。 苦労したんだって言って、恩を売ったって構わないのに。 セナは決してそんなことはしない。 心が痛い。 心だけじゃなく、全身が悲鳴を上げている。 どうして居なくなってしまうんだろう。 傍に居て欲しいのに。 傍に居て微笑んでくれるだけでいいのに。 それだけできっとこの痛みは引いて行くのに。 「セナ…本当にもう、戻ってこないの?」 コンコン。 ドアがノックされる。 「翔、居る?」 「櫂…入って」 ドアを開けて、櫂を迎え入れる。 櫂は部屋の中に入って、近くにある椅子を引き寄せて座った。 「また…セナのこと考えてた?」 「うん」 「僕も、だよ」 櫂は微かに笑う。 そう、みんながセナのことを考えている。みんながセナのことを想っている。 なのに、セナは戻ってこない。 セナが居なくなってから、みんな何も手につかなくなった。精霊の元にも行けない。セナを探しにもいけない。何も出来ない。 無力感。 無気力。 何かが自分たちから欠けてしまった。 ウィンフィールドの人たちを助けようと頑張ってきた筈なのに、それすらもセナが居ないだけでなんだかどうでもいい気分になってしまう。 いや、どうでもいいわけじゃないけど…でも、セナが居ないと、ダメなんだ。 六人居たから、自分たちは今まで頑張って来れたんだ。 「…僕たち、セナに甘えすぎたんだよ」 「櫂」 「甘えすぎて、傍に居るのが当たり前だと思って、絶対居なくなる事なんてないと思って、そんな馬鹿なこと考えて甘えてたから、セナは居なくなったんだ」 「うん…」 「僕たちは何もしなかった。居るのが当たり前だと思って。自分たちのことを考えてくれるのが当たり前だと思って、セナに何も返してなかった」 「うん」 櫂の言葉に、翔は頷くことしか出来ない。考えていることは同じだ。 セナに戻ってきて欲しい。 「僕…思ったんだけど」 「何?」 「小さい頃から、ふっと視線を感じる事があったんだ。不快な感じじゃなくて、とっても優しくて暖かい視線。辛い時に、そんな視線を感じると、ああ、僕は一人じゃないんだなって思えた」 「俺も。櫂が養子に行っちゃった時や、父さんと母さんが死んだ時とか、そんな視線を感じて、悲しいけど、頑張ろうって思えた」 「あれは…セナだったんだよね」 「うん」 いつも見守っていてくれた。転んだ時に手を伸ばしてくれる訳じゃない。辛い時に慰めてくれる訳じゃない。でも、いつも見守っていてくれた。 前に進まなければいけない時に、セナが少しずつ自分たちに与えてくれた優しさがトンっと背中を押してくれた。気づかないうちに、自分たちはセナに救われていた。 助けられていた。 「セナに、戻ってきて欲しい。セナが居ないと、ダメなんだ…」 「うん…」 「じゃぁ、連れ戻しに行こうぜ」 翔の言葉に櫂が答えると、意外な声がした。 「逢坂先輩っ」 「連れ戻しに…?」 「そうだよ。あれで諦めんのか?セナはもう居なくなったって諦めんのかよ。こうして前にも進めずに居るのに?居て欲しいんなら、連れ戻すしかねぇだろうが」 クリスの言葉は強く、翔たちに響く。 「でも、何処にいるか」 「ウィンフィールド城だ」 戸惑いの声を投げかける櫂にクリスが断言する。 「セナは、ランの傍に居るはずだ。ランはレイヤードの傍にいる。レイヤードは城に居る。簡単なことだろ」 確かにそうだ。 喪失感に目を塞がれていて気づかなかったけれど、クリスの言う事は尤もだ。簡単なことだ。 セナはウィンフィールド城に居ると考えるのが一番可能性が高い。そして、セナを失った事を嘆くぐらいなら、連れ戻しに行けばいい。 二度と手の届かない場所に行ってしまった訳ではないのだから。 手に届く場所に居るのなら、連れ戻しに行けばいい。拒絶されたって、何度でも何度でも行けばいいのだ。 「おっさんも千倉も、もう準備は出来てんだぜ?」 クリスの言葉に、翔と櫂はさっと立ち上がる。 今まで止まっていた時間がやっと動き出した気がした。やっと前に進める気がした。 セナを連れ戻しに行こう。嫌だと言ったって、何度でも何度でも。会わなければ何も言えない。言わなければいけない。 今まで、頼ってばかりでごめん。 そして、ありがとう。 そう、言わなければ。 伝えたい。 これからも、ずっと一緒に居たい。 自分たちもセナを支えられるようになるから…。 ウィンフィールド城の近くの森の中に、五人は息をひそめて話し合う。 「全員で行くのは危険だ」 「じゃぁ、誰か一人だけ中に入るか?」 「俺が行く!」 紫苑とクリスの言葉に翔が真っ先に答える。 「ダメだ。翔は城の中の事は全く解からないだろう。俺が行く」 「城の中の事だったら俺だって解かるぜ」 「クリストファー様を危険な場所にみすみす一人で行かせる訳にはいきません」 「危険だって言うんなら、最初からこの旅は危険だっただろうが」 「クリストファー様!」 「わーったよ。でも、お前がダメだった時は俺が行くからな」 「…はい」 取り敢えず話しに決着が着くと、紫苑は立ち上がる。 「行ってくる」 「僕たち、此処で待ってますから」 「ああ、セナを連れて、戻ってくる」 「精々気をつけて行けよ」 「東堂先生、頑張って」 「ああ」 それぞれ声を掛けながら、意志を確かめ合う。 セナが大切なのは皆同じだ。それと同じように、それぞれ皆が大切なのだ。 翔は紫苑を見送りながら、そう思った。 城の中に潜り込む。 セナが実際に城の何処に居るかは解からない。だが、それでもセナを見つけられる。紫苑はそう確信していた。何も根拠はないのに、そう思っていた。 そして、一羽の鳥が上空を舞う。 暮れかけた空に紛れながら、それでも明らかに紫苑を誘うようにその上空を舞った。 「ピピ…」 その鳥を追いかけていく。暗くなってきた空を見上げながら見失う事のないように後を追う。その先にセナは間違いなく居るはずだ。ピピは一度、セナの居場所を知らせに来た。今回は宿まで知らせに来ることはなかったが、それでも紫苑を見つけて案内してくれているのだ。 城の庭園に入った。 そして、ピピは上空から舞い降り、その下に居る人影の肩に止まった。 その瞬間、息を呑んだ。 目の前に居るのは確かにセナだ。だが、紫苑の知っているセナとは程遠い。ピピが、セナから離れられなかった筈だ。セナがピピを大切に思っているように、ピピもセナを大切に思っている。それは見ていれば解かる事だ。その大切なセナがこんな状態で、ピピがセナを一人に出来る筈もない。 いつも冴え渡っていた青い瞳は暗く沈み、光を消している。 心を閉ざした、空ろな表情。 それでも尚、人目を惹く空気。 見る者が見れば、人形のようにさえ見えただろう。 「セナ…」 紫苑は声を掛ける。 その声に、ぴくっと、セナの肩が震えた。 そして振り返り、紫苑を認める。その瞳に移しているのかどうかは解からなかったが、それでも紫苑だということは理解したのだろう。踵を返して其処から去ろうとする。紫苑は慌ててそのセナの手を掴んだ。 「待てっ」 紫苑は声を顰めながらもセナを引き止める。そして辺りを見回した。薄暗いとはいえ、此処は城からでは丸見えだ。拒絶するように振りほどこうとするセナの手をしっかりと握りながら、庭園の奥、城から見えない位置までセナを引っ張っていく。 「…して…」 「何?」 「放して…ください」 セナは怯えるように手を引いた。 こんなのはセナではない。紫苑の知っているセナではない。それが、やけに腹立たしく、紫苑は眉間に皺を寄せた。 「お前は、本当にもう戻るつもりはないのか?」 「……」 「みんなお前を心配してるんだぞ?」 「帰ってください。見つかる前に」 「お前を連れてではなければ帰らない」 紫苑の言葉に嫌だと言うように首を振る。その瞳は相変わらず暗いままで、紫苑を映しているのか解からない。何もかも拒絶して、見ようとしない。 そんなセナが許せなかった。 「確かに、お前を助けに行くのは遅れたが・・・みんな大怪我をしていたし、幾分怪我の軽かった俺も他のみんなを置いてお前を助けに行く訳にはいかなかった。お前なら解かるだろう?俺たちは近衛兵だ。守るべき人たちが居る。その人たちを置いて、お前を助けに来る事など出来なかった」 「…」 「それでも、みんなお前を心配していたんだ。それは嘘じゃない」 その紫苑の言葉にも、セナは答えない。 「翔と櫂…あの二人にはお前が必要なんだ。お前が居なくなってからのあの二人の落ち込みようは酷かった。自分を責めて、苦しんでいる。お前は本当にその二人を放っておいていいのか?」 「…っ」 「ずっと見守ってきたんだろう。今更二人を見捨てるのか?」 「ちが…っ、違うっ!!」 セナは小さくそう叫び、地面に膝を付いて、耳を塞ぐようにしながら首を振った。 「違う…っ、私は…私はただ――――…っ」 苦しげに声が詰まる。その先の言葉は出て来ない。まるで、その先の言葉を言う事を、自ら禁じているかのように。望むことを口に出さず、それを押さえつけるように。 そして、その苦しげで、悲しげな表情を見て、ようやく気づいた。 自分は何をしているのだろう。 セナを連れ戻しに来たのではなかったのだろうか? それなのに、結局自分は言い訳と、セナを責める言葉しか口にしていないではないか。まず最初に、他に言う言葉があった筈だ。 それで、セナに戻ってきて貰おうなどとむしが良すぎるにも程がある。 紫苑はセナの前に、屈み込み、その震える肩に手を置いた。 「セナ…すまない」 その言葉に、セナはふっと顔を上げた。初めて、セナの視線が紫苑を捕らえる。 「本当は、お前をすぐに助けに行くべきだった。お前が何に苦しんでいるのか、何を望んでいるのか、俺にはまだよく解からない。だが、それでもお前は俺たちに必要なんだ。お前が居ないだけで、俺たちは前に進めなくなる」 「…シオン…中将…?」 「戻ってきてくれ、セナ。みんなお前を待っているんだ。だから、俺はお前を迎えに来た」 「…でも、私は……っ」 セナは悲しげに瞳を伏せた。迷うような仕草に、どうしようもなく胸が詰まる。 何を迷っているのか、何に苦しんでいるのか、解からなくともその感情だけは伝わってくる。そのセナの中に広がる悲しみが切なくてたまらなかった。 「全く…勝手に惑わされては困りますね」 突然、今までとは異質な声がして、はっと視線を上げる。セナも驚いて振り返った。 「ラン…」 セナは驚きに目を見開きながら、その瞳に何処か縋るような色を見せた。セナを、此処まで連れてきた男。自然と紫苑はランを見る目が鋭くなる。 「彼は私のものですよ。本人も納得済みで此処に来たんです」 「納得済み?それじゃぁ、どうしてセナは今こんなに苦しんでいるんだ?本当に納得しているのなら、こんな風にはならないだろう」 「解からないでしょうね、貴方には。彼がどうしてあなた方を拒絶したのか」 「なに?」 「深く、暗い闇を持つ人間の気持ちなど、貴方には解からないでしょう?」 ランはくすり、と笑ってみせる。 しかし、紫苑はそれでも怯まない。 「お前のことがどうかは知らないが、セナは少なくともお前とは違う」 「違う?」 「人間、誰しも心の中に闇を持っている。しかし、本当にその人間の価値が解かるのはその闇に負けるかどうかだ。セナはまだ負けていない」 「まだ…だろう?どちらにしろ、彼が此方側に近いところにいるのは確かだ。何より、彼はそれを自分で選んだのですよ。あなた方に期待する事も、信じる事も、求める事も止めると、自分で選んだんです。その決定を貴方は否定するのですか?」 「否定?そうじゃない。セナが本当にそれを心から望んでいるのなら、何よりも今迷う理由がないだろう」 ランは、紫苑との口論を溜息を吐いて止めた。 「全く、私たちがこんなことを話していても仕方がない。これは本人が決める事だ。こちらに留まるか、向こうに行くか」 ランはセナに問い掛ける。 その問いはセナにとって酷以外のなにものでもない。答えが出せないから迷っているのだ。 「私…は……」 セナはランと紫苑の間に視線を彷徨わせる。 そんなセナに、紫苑は声をかけずには居られなかった。 「セナ、本当にお前が望むものは何だ?俺たちのところにあるんじゃないのか?お前が望んでいるのは何かは解からない。だが、翔や櫂だって、お前が望むなら、必死にそれに答えようとするんじゃないのか?お前が守ってきたのは、そういう人間だろう?」 「……シオン中将…」 セナは紫苑の名を呼ぶ。それでも、まだ迷うようにランを見た。 ランを見る時に、悲しげに、視線を揺らした。ランは答えてくれると言うのか?セナの望むことを。セナが何を望んでいるのかを知っていて、それを与えるというのだろうか。 しかし、ランはそんなセナの様子に溜息を吐いて見せた。 「全く、どいつもこいつも甘くて困る」 「ラン…」 「お前は違うと思ったが、どうやら結局お前もただの腑抜けだったようだな」 ランの言葉にセナは軽く目を見開く。 「私は、そんな腑抜けなど要らん」 「ランッ!」 セナはランの突然の拒絶に引き止めるように叫ぶ。 しかし、その時にかける言葉を紫苑は思いつかなかった。そのランをみていて気づいたのだ。ランは、本当にセナを必要としていたのかも知れない。セナを、愛していたのかも知れない。 だから、セナが崩れかけているのを知っていても手放さなかったのだ。そしてそれを、セナは確かに感じ取っていたのだろう。だからこそ、セナはランに対しての迷いを消せないで居る。 「さっさと連れて行け。目障りだ」 そう言ってランは去っていった。 セナはランの姿を見送りながら、追いかける事も出来ずに居た。セナは、此方側に戻ってきたのだ。確かに。だから、追いかける事が出来ないで居る。 「…しは…」 「セナ?」 セナが掠れた声を洩らしたのを、紫苑は聞き返す。 「私は……私は、ただ………して、………かっ………なんです」 掠れて、殆ど声にはならなかったが、それでも、紫苑はセナが何を言ったのか理解した。そして、それを理解した途端に胸が詰まった。 ただ、愛して欲しかっただけ。 確かに、そう言った。 ずっと言葉にする事が出来なかった言葉。ランの拒絶がそれをセナに言わせたのだ。 セナは、与えるばかりで、返って来ない愛情にどれほど苦悩しただろう。両親が居なかったとはいえ、翔も櫂もクリスも、誰かに愛情を、無償の愛情を与えられて育ってきたのだから。そして、それは紫苑も同じだ。クリスを育て、愛しながら、クリスもまた、少しずつそれを返してくれた。別にそれを言葉に出すわけではない。その成長の一つ一つ、その言動の一つ一つに与えられた愛情が返って来るのを感じた。だが、セナにはそれが出来なかった。 翔と櫂はセナの存在を知らなかったのだから。ただ見守り、幸せを願いながら、二人はセナの存在を知らないが故にそれを返すことが出来ない。だが、その頃ならまだ良かっただろう。その頃なら、仕方がないと期待せずに済んだだろう。だが、会ってしまえば、会って事情を話してしまえば、期待してしまうのも無理はない。 何処かで、自分の与えられた愛情を理解して、それに答えて欲しいと思うのは。二人がそれを蔑ろにする人間ではないことも解かっていながら、期待しながらも惑い、苦しんでいたのだ。何よりもその身に、愛情という名のものを十二歳の頃から断ち切られていたのだから。暖かい日々を捨て、ただ生きる事、彼らを守る事に人生を費やして、誰かに愛される事もなかっただろう。 人は、愛情なしでは生きていけない。今までの分の、十数年間の枯渇した愛情を求めてしまったとしても仕方がない。しかし、セナはそれを言葉にする事は出来ないし、言わずにそれを理解出来るほど彼らもまだ大人ではない。 言葉にして、拒絶された時の痛みなど考えるだけで辛いものだろう。だから言葉に出来なかった。期待しないようにしていただろう。それでも心は勝手に期待する。誰かに愛して欲しい。誰でもいいから愛して欲しいと期待してしまう。 そして、だからこそ、紫苑にはランのセナに対する拒絶が、彼の本心だとは思えなかった。 ただ、愛して欲しかっただけなんだと、そう言うセナに、ランは紛れもなく愛情を与えたのかも知れない。言葉にしなくとも、その心を理解して、与えたのかもしれない。 だから、セナはランに縋ったのだ。他に何も、縋るものなどある筈はない。 苦しげに震えるセナを見ながら、そう思う。 セナはランの感情を間違えずに理解している。だから、ランの言葉はセナを苦しめた。ランにそんな言葉を言わせた自分が許せないだろう。 それでも、セナは戻ってきた。いつまでも此処に居ては見つかるかも知れない。 「セナ…戻るぞ」 そう、声を掛けた。 セナは紫苑を見上げ、そして震えながらそれでも頷いた。 みんなの居る場所にまで戻ると、セナを連れている事に気づいた翔が真っ先に飛び出してきた。 「セナ…ッ!!」 「…翔」 「戻って、来てくれたんですね」 「…櫂…」 続いて出てきた櫂の嬉しげな声に、セナは視線を伏せる。 そしてその場に膝を付いた。 「すみません、翔、櫂…。私は……」 謝罪の言葉。 罪悪感。 一度拒絶してしまった者に対して、すぐに打ち解けるなんてことは出来ないだろう。拒絶された方がどう思っていても、してしまった自分が許せない。 「私は…ッ」 「セナ、いいんだ」 苦しげに声を出すセナを、翔は抱きしめた。セナはそれに目を見開いた。 「いいんだ、セナ。今は。戻ってきてくれただけで嬉しい」 「翔…」 「俺、今でもセナが何に苦しんでたのか、何に悲しんでたのか、よく解からない。きっと、これからも気づかないでセナを傷つけたりするかも知れない。知らずに甘えてしまって、セナを苦しめてしまうかも知れない。でも、俺たちにはセナが必要なんだ。セナ、ずっと俺たちの傍に居て。今はまだ無理かも知れないけど、それでも、俺たちも少しずつセナに返していくようにするから。セナにいろいろ助けて貰った分を、返していけるようにするから」 翔は、セナを抱きしめてそう言った。 「全く、翔ってば、僕の言いたかった事も全部言っちゃうんだから。僕の台詞がなくなっちゃったじゃないか」 「櫂…」 セナは、途惑うように二人を見つめる。 「ずっと僕たちの傍に居てください。セナにとっては僕たちはまだ頼りない子供かも知れないけど、いつか、セナを守れるだけ強くなるから」 「傍に居て、セナ。俺たちには、本当にセナが必要なんだよ。今まで甘えてばっかり居てごめん。ずっと、俺たちが知らない間、ずっと俺たちのこと守ってきてくれたんだよね?ありがとう」 「…ッ」 二人の言葉は、セナの心の奥にあった、戸惑いや不安を溶かすには十分だったのだろう。セナのその瞳から、涙が溢れてきた。今までの悲しみも、苦しみも、どんな些細な言葉でもいい、少しでも答えてもらえるなら、それだけで報われる。 何よりも、二人は心優しく、強い人間だ。 知らず知らずのうちに、セナの求めるものを返している。 この二人が居る限り、もう二度と、セナがあちら側に行く事はないだろう。 この二人は、こんなにもセナのことを想っているのだから。 今までのセナの生きてきた道は、決して無駄ではないのだから。 セナは、抱きしめてくる翔の背に、そっと手を回した。 まだ小さい。 けれど、きっとこれから何よりも逞しくなるだろう背中に。 Fin |