チャリ…。 金属音が耳に入る。セナはふ、と目を醒ました。 一瞬、此処は何処だろう、と考える。何があったのか、自分の記憶を探る。前にもこんなことがあったようにも思えるし、ずっとこんな状態だったのかも知れないとも思う。 彼らと会い、旅に出たのは全て夢で、ずっと此処に囚われているのではないのか、そんな考えが頭を過ぎる。そもそも、自分のような者が彼らと一緒に居る事自体おかしいではないか。 冷たい空気。 石の壁。 自分を繋ぐ、鎖。 ひんやりとした冷たい石の床。 此処は、牢だ。人を、繋ぎとめておく場所。 セナはようやく起き上がる。着ている物はそのままだが、武器は一切見当たらない。右腕に繋がる鎖は不自由のない程度に長く、しかし此処から出て行くことは叶わない。 「目を醒ましたようだな」 声をかけられ、そちらを見る。遠い記憶と姿がぶれた。 「……ラン」 相手の名前を呼ぶとランは口許に笑みを刻んだ。 「その姿、やけにサマになっているじゃないか」 「……」 ランの言葉に沈黙で返す。縛り付けられ、戒められる事。それは別に嫌ではない。サマになっていると言うのならそうなのだろう。 何かに囚われることは、何処か安心する。何処にも行くところがないことの方がセナにとっては恐怖だ。戻る事も進む事も出来ない。囚われている間は、少なくともその場所が自分の居場所になる。 それは、セナを何処か安心させた。 けれど……。 ランが目の前に居るという事は、つい先刻起こったことは現実だということだ。ならば、自分は此処に居るべきではない。 「此処から出してください…と、頼んでも無駄でしょうね」 「当然だな」 「目的は一体何なのです」 「さぁ」 「封印の鍵ですか?」 「それもある」 「それも…?他に何が?」 セナの疑問に、ランは笑いながら歩み寄る。ランの右手が頬に触れた。 「お前に興味がある。個人的に、な」 「個人的に?レイヤードはこのことを関知していないのですか?」 「それはお前には関係のないことだ」 確かにそうかも知れない。セナもレイヤードのことには興味はない。ただ、何故ランが自分に関心を持ったのかが解からない。 「それで…、貴方自ら会いに来た訳ですか?私に興味があるから」 「ああ、そうだ」 頬に触れていた右手が滑り降り、セナの手を握る。 「見張りもなしに」 「必要ない」 「…魔法は」 「今は使えないだろう。この鎖は魔力を押さえるためのものだ」 道理で、とセナは溜息を吐く。自分の中の魔力の流れを感じない。無くなった訳ではないのに、何処か奥底で固まって動かない。そんな感じがする。 恐らく、それは黒い翼を捕らえておくための鎖なのだろう。それを自分が黒い翼に囚われるためにつけているというのは、滑稽でしかない。あまりにも、嵌りすぎだろう。 「私はただの近衛兵ですよ。貴方が興味を持つようなものは何もない」 「いや…あるな。お前は十数年前に私を傷つけ、ロベールの子供を守った。それだけでも十分だが…」 「他に?」 「何よりも、何故お前に魔法が使える?」 「……」 ランの問いに、セナは視線を伏せ、答えない。ランは掴んだセナの手を持ち上げる。 「この手で、何人の人間を殺してきた?」 「…っ!!」 その言葉に、セナはランの手をばっと振り解き、鋭く睨みつけた。 「図星か。まぁ、そうでもしなければ、子供だったお前が一人で生きてこれる筈もないだろうが」 「そんなことを聞いて、一体どうするのです?」 「自分の身体を売って、汚いことは何でもして来たのだろう?人間の欲、薄汚さを、お前は随分多く見てきたのではないのか?」 「何、を…」 「お前はこちら側の人間だ。人間の欲は尽きる事を知らず、それが当然なんだとな。お前はそれを知っている筈だ。自分のためには人がどうなろうと構わない。世の中はそういう人間ばかりだ。そうだろう?お前はずっとそれを見てきた筈だ」 「…一体」 「こちら側に来い。私の下へ。奴らが善人であるのは、お人よしであるのは、人の汚いところを知らないからだ。何も知らないからそう居られる。だが、お前は違う。お前は人の汚さを知っている。そして、自分の汚さも」 ランの言葉はセナの心を裂いていく。少なからず、自分の心にあった欺瞞をランは暴いていく。 「…私が、貴方のところに行って、何の得があるのです」 「得?得ならある。お前は奴らのことをよく知っているだろう?恐らく、あの中では一番白い翼の事も、黒い翼の事も理解しているのではないか?」 「買い被りです」 「そうかな?まぁ、それはいい。だが、お前は少なからず黒い翼に惹かれているのではないのか?」 「馬鹿なことを…」 「ならば、何故私やカレンのことをやつらに黙っていた?例えカレンに黙っていろと言われたとしても、やつらの為を思うなら告げていて当然だろう?お前は黒い翼に惹かれている。だから言えなかったのではないのか?」 「ちが…」 「違う?そうかな?知っている情報を味方に提示しないということは、相手を信じていないという事ではないのか?やつらは世間知らずの苦労知らずだ。幸せに、日の当たる場所で暮らしてきたから奇麗事が言える」 「……」 「ああ、お前が気にしているのは御園生櫂のことか?確かに彼もそれなりに苦労してきただろうが…だが、彼が生活に困った事があったか?生きる事に困った事があったか?お前の本当のことなど、やつらには理解出来んだろう」 セナは言葉が出ない。ランの言葉に納得する自分と、反発する自分が鬩ぎ合う。ランの言葉がセナを惑わしていく。 そう、きっと解からない。彼らには。 「それでも…」 「それでも、か。何を期待している?やつらに本当にお前の事が理解出来ると思うのか?表の顔しか見ず、裏の部分など知らず、お前の心がどれだけ闇に塞がれていようと、奴らは理解しない」 「…」 「こちらに来い。私ならお前を理解してやれる。お前の求めるものは何でも与えてやろう。日の当たる部屋も、寛げる場所も、守るものも、決して変わらぬ、愛情も…」 「…愛情?」 「ああ」 「貴方が…?」 「ああ、そうだ」 「レイヤードは…」 「レイヤードですら、私が利用している駒に過ぎない。彼も所詮はお坊ちゃんだ。甘い。私に相応しいのはお前だ。お前だけが私の隣に在れる」 ランの言葉はセナを誘惑する。 セナの求めるものが、その先にあるようにさえ見える。 「私なら、お前を愛してやれる。お前の全てを理解して、お前の全てを愛してやろう」 「んっ…ふ…」 ランはセナに口付ける。しかし、セナはそれを拒絶する事が出来ない。それに気を良くしてか、ランのキスは深くなる。セナは知らずにランの袖を掴んでいた。 そのキスがあまりにも優しくて。 敵対していた筈なのに、ランの言葉は的確にセナの心を突いて来て。 縋りたい…何もかも任せて。縋り付いてしまいたい。 拒絶する心が空ろになっていく。 「私を受け入れてしまえばいい。そうすれば、お前は楽になれる」 ランの手がセナの服を脱がせていく。ランの手は的確に動き、セナの快楽を引きずり出す。 「ふっ…う…」 次第に熱い息が漏れる。 触れてくる手が優しくて、そのまま溺れてしまいたくなる。 ランの指がセナの中心に触れる。与えられる快楽に、セナは従順になる。 「はぁっ…ぁ、ん…っ」 「お前はあの双子に執着しているらしいが…王弟妃に頼まれたから、だったか?」 「んぅっ…ん…」 そう言いながら、ランの指は最奥へと伸びる。入り口に触れ、先走りを少しずつ其処に塗り込めていく。 「だが、お前が其処までしてやる必要が何処にある?結局は王弟妃もお前のことなどより、自分の子供の方が大事だっただけだろう」 「ぁあっ…や…め…」 それ以上言わないで欲しい。崩れていく。自分を支えていたものが。 夢が。 理想が。 暖かかった日々が。 「どうしてお前が他人のために生きる必要がある?其処までして何が得られる?何もないだろう。してもらうことが当然で、感謝の気持ちなど何も無い」 そんなことはない。 彼らは、違う。 でも反論する言葉は出て来ない。 快楽と、自分の内から浮き彫りにされていく醜い部分が、言葉を止める。 ランは解した其処に自分のものを宛がい、貫いた。 「ぁあっ…ああ…くっ…」 「愛情など、彼らには普通に与えられるものだ。羽村翔には家族が居た。親友が居た。御園生櫂には凪が居た…。だが、お前には誰が居た?」 誰も。 何も。 ただ、約束を…。 「与えるばかりで、与えられない。何も無い。あるのは人の欲ばかりだ」 崩れていく。いろんなものが。 守りたいのに。 信じていたいのに。 ランはセナの中で動き、快楽がセナの思考を鈍らせる。 「ひぁ…っ、あ、あ…んっ…」 セナはランの背に縋りつく。言葉はセナの心を崩していく。しかし、行為は、触れてくる手はあくまでも優しく。 セナは漏れる嬌声を押さえる事もせず、確かなものなど何も無い場所で、たった一つ縋りつける背中に手を回すしかなかった。 「ぁ、あ……あ、もう…っ…は…ぁ…」 「もう、イきたいか?」 「あ…ぅ…イき…たい…っ」 「そうか」 最後の、その一言があまりにも優しくて、それが信じられないほどセナを感じさせた。それと同時にランは一気にセナを突き上げた。 「ふっ…ぁ、ぁああっ!」 セナが射精したと同時に、ランもセナの中で欲望を吐き出した。 快楽の名残で震えるセナをランはゆっくりと横たえさせ、自分の服を調えた。 「今はまだいい。だが、近いうちにお前は私の下に来る。必ずだ」 その確信に満ちた声を聞きながら、セナは意識を手放した。 セナたちの前にランが現れたのは突然だった。 皆一様に驚き、身構える。 ランはたった一人、共のものさえつけず彼らの前に現れた。目的は封印の鍵だろうと思い、警戒を露に戦闘を開始する。 しかし、矢張りランは強く、本気で戦っても勝てる相手ではなかった。 「くそっ」 皆傷つき、動く事が出来ない。 此処までか、とみんなが思う。其処で一歩翔に近づいたランに、セナは自分も傷つき、倒れながらも銃を向けた。 そのセナを見て、ランは目を細める。 「まだ、抵抗する元気があるか」 くっ、と笑いながら、ランは翔から離れ、セナに近づいた。そして胸倉を掴み上げる。 「面白い」 そう言ってランはセナを攻撃した。何度も、何度も。セナが意識のあるうちは攻撃を続ける。 「うっ…ぐ…」 「セナッ!」 翔の叫ぶ声が聞こえる。しかし、そんなものなどランは気にも止めず、セナを近くの木まで弾き飛ばした。 セナの記憶は、そこで途切れた。 セナは目を醒ます。 身体はだるいが、それでもあまり痛みはなかった。そういえば、目を醒ました時も傷はなかった。回復魔法を掛けられていたのだろう。 石の壁の上の方に小さな窓が見えた。人が通る事など到底不可能だろう、小さな窓が、少しだけその薄暗い牢に明かりを差し込ませていた。 少しの間、その窓の光を見ていると、一羽の小鳥が其処から牢の中に入ってきた。 「ピピ…」 セナは起き上がり、手を伸ばすと、ピピはセナの指に止まった。 空いている方の手で、ピピの小さな頭を撫でた。追いかけてきてくれたのだ、連れ去られた自分を。そう思うだけで胸が詰まる。崩れかけた心に少しだけ希望が湧きあがる。 「ピピ、お願いです。皆を、皆を此処に…お願いします」 セナは、自分の心が二つに分かれているのが解かっていた。だからこそ、必死に頼む。 「お願いです。早く…そうでなければ、私は……」 ランの誘惑に、負けてしまう。 ランは的確にセナの心を突く。心の中にある不安や、欺瞞、疑いを暴き立てていく。セナの心の醜い部分を露にして、それでもなお慈しむように触れてくる。 その手に、心から縋りつきたくなる。 信じたい。 本当はまだ信じたいのに。 でも、何を信じればいいのだろう。 彼らの助けをか。 それとも、自分の今までの生き方をか。 彼らと共にある何かを信じたいと思うのに、それが何かすら解からなくなってきている。 今の自分の心はこの牢のようだと思う。 真っ直ぐ差し込んでくる光がある。でも、その光ですら全ての闇を照らし出す事は出来ない。隅にある暗闇は尚更暗さを増す。 そんな、心。 真っ直ぐで心優しい彼らと、卑怯な自分との違いを、時々痛いほど理解する。真っ直ぐで、感情表現も素直で、だからこそ一生懸命な彼らに、自分は一歩引いた場所でそれを羨ましげにいつも見ていた。ずっと、一緒に居ながら其処が本当に自分の居場所なのか解からないで居た。 ランがそれを浮き彫りにする。 彼らを信じたいと思うのに、ランの言葉はそれを崩していく。信じるだけ馬鹿だと、信じて裏切られたらどうするのだと、そう言ってくる。 裏切られるのは辛い。信じた分だけ辛い。勝手に期待していたくせに、それでも矢張り辛い。ならば、最初から信じなければいい。 そんなランの言葉を、受け入れてしまいたくなる自分が居る。 早く。 早く、此処から出して欲しい。また、彼らを信じさせて欲しい。そうでなければ、きっと自分はランの言葉どおり、彼らに仇なす者になってしまう。 「ピピ、お願いします」 そう、セナが呟くと、解かったと言うように、くるりと牢の中を一週回り、窓から出て行った。 「お願い…します」 どうか、早く。 彼らに仇なす者になる前に。 ランの誘惑に負けてしまう前に。 どうか…早く。 それからランは毎日のようにセナの元へやって来た。 毎日ようにセナを抱き、そして誘惑の言葉を吐いていく。 身体は快楽に慣らされ、心はその誘惑に惹かれていく。 「ふッ…ぅ…」 ランに抱かれながら、抵抗も出来ず、されるがままになる。 「私の下に来い。誰が一番お前を必要としているのか、お前はもう解かっているだろう?」 「ぁ、あ…あ…」 心が、どうしようもなくその言葉に惹かれていく。 耐えられなくなる。 何が正しいのか。 何が間違っているのか。 全てがどうでもよくなる。 この世界では、この場所では、ランだけが確かなものだった。ランの言葉だけが確かな意志を持ってセナを求めていた。 それに、縋りつきたい。 考える事すらも、もう、苦しい。 セナがランに連れ去られて十日経った。 何処に居るかも解からず、そして自分たちも深手を負ったために、探す事も出来ずに十日も過ごしてしまった。誰もがその表情に不甲斐なさと悔しさを滲ませていた。 やっと、動けるようになった。 セナを探しに行きたい。でも、何処に居るかも解からない。居たとしても、救い出せるかどうか…。 考えれば考えるほど、情けなくなっていく。 どうにかしなければならないと思うのに、その方法が解からない。それがもどかしい。 「セナ、今頃どうしてるんだろ。無事でいるのかな…」 翔は呟く。酷い怪我をしていた。翔に迫るランから守ろうとして、目をつけられた。 それを、自分は助ける事も出来ず、見ていることしか出来なかった。それが悔しい。セナは自分を助けてくれたのに、自分はセナに何も出来なかった。 「無事だとは思う。何か目的がなければ連れて行ったりはしないだろう」 「…目的って?封印の鍵ならあの時取る事が出来たじゃないか!他に何があるんだよ!!」 紫苑の言葉に、翔が反駁する。 それは、確かにそうだった。セナを連れ去らなくとも、封印の鍵を取ることは出来たし、翔たちを殺す事も出来ただろう。では、何故セナを連れ去ったのか。 「大体、封印の鍵が目的でセナを連れ去ったなら、そろそろ何かしらの連絡があってもいい頃じゃないですか」 「…実験、とか?」 「え?」 「普通の人間に、黒い翼つける実験してたんだろ、あいつら…。もしかしたら、セナも…」 クリスの言葉に、みんなが固まる。 「そんな、まさか…」 「まさか、とは思うけどよ。他にいくらでも人間は居るだろうし…。でも、他にどんな理由がある?奴らは俺たちに近い人間から利用しようとしてくんだぜ?」 「でもでもでもっ、水落先生は青木くんみたいに何か弱みを握られてるわけでもないんだし…」 「一回捕らえちまったら、そんなの関係ねぇだろ」 杏里の言葉にもクリスは無情に反論する。 本当はクリスもその考えを否定して欲しかった。覆せるだけの理論が欲しい。納得できるだけの言葉が欲しい。だが、それが思いつかない。 「何にしろ、今そんなことを言っていてもどうしようもない。どうにかしてセナを救い出すんだ」 「何処に居るかもわかんねぇのにか?」 紫苑の言葉にクリスは反論する。 五人の間に沈黙が下りた。この無力さは何だろう。この国を救うと言いながら、セナ一人助けに行く事が出来ない、この無力さは。 コンコン 「え?」 コンコン 何かを叩く音がする。ドアではない。窓の方だ。そちらを見ると、ピピが窓ガラスを嘴で叩いている。 「ピピ!」 「セナと一緒に何処かに居なくなったと思ったら…」 窓を開けてやると部屋の中に入ってくる。が、部屋の中を何度も飛び回るだけで何処にも止まろうとはしない。 「…ひょっとして、セナの居場所を知ってるのか?」 翔の言葉に答えるようにピピは鳴く。 「知ってるんだ!俺たちを其処に連れて行こうとしてるんだ!!」 翔の声に元気が戻る。 セナの居場所がわかる。セナを助けに行ける。 「行こう、みんな!」 「ああ」 「…早いほうがいいな」 翔の言葉にみんな頷き、紫苑も答える。その言葉を聞いたと同時にピピは窓の外に飛び出した。翔たちも急いで宿から外に出て、ピピを追いかけた。 ピピが翔たちを連れてきたのは随分と遠い場所だった。 何度もモンスターに出くわし、戦う。 そしてやっと辿り着いたのは、高い石造りの搭だった。 「此処は…」 「此処、一体何なんです?」 紫苑の呟きに櫂が問う。 「此処は、黒い翼専用の牢屋だ」 「え?」 「悪事を働いた黒い翼を捕らえて閉じ込めておく場所だ。そのために、魔力を封じる鎖も置いてある」 「…じゃぁ、水落先生は…」 「セナは魔法が使える。だから用心のために此処にしたのだろうな」 紫苑の言葉に、此処にセナが居るのだと実感する。 ピピは高く舞い上がり、一つの窓に飛び込んでいく。 「あそこに、セナが居るのか」 「ああ、間違いない」 頷きあい、その石造りの搭に入っていく。 一歩足を踏み入れただけで、ひんやりとした空気が頬に触れる。床も何処もかしこも全て石。足の裏から冷たさが這い上がってくるようだった。 「誰も…居ないみたいだ」 「抜け出せないと思って、見張りも居ないのか?」 「…油断はしない方がいい」 翔とクリスの言葉に、紫苑は注意を促す。 「何か罠があるかも知れない」 「そうですね。いくらなんでも無防備すぎる」 紫苑の言葉に櫂も同意する。 この搭は内側に螺旋階段があり、外向きに部屋があるようだった。中央に来ればステンドグラスから差し込む光が見える。 五人は注意しながらその階段を昇っていく。 誰も居ないように見えるが、それでも何処かの部屋に敵が潜んでいるかも知れない。全ての部屋の前を通らなければならないのだから、当然待ち伏せすることも可能だろう。 だが、何事もなくピピが飛び込んでいった部屋の前に着いた。 鍵が閉まっているかと思ったドアも開いていた。 中には、セナと…。 「ラン!」 中には、セナとランの二人だけだった。 セナは足を投げ出すようにすわり、ランはそのセナの前に膝をついていた。ランはセナの頬に手を触れ、しっかりと抱きしめていた。 セナは翔たちの存在に気づく様子もなくランのされるがままになっていた。ランだけが振り返り、翔たちに視線を合わせる。 「遅すぎる」 「なに?」 ランの言葉に翔は疑問を返す。その声に、微かに怒りが含まれているような気がしたのは、気のせいだろうか? 「遅すぎると言ったんだ。もう、この男はお前達の元に戻る事は無い」 「何言ってんだ!セナを返せ!」 「返す?ふっ、それではこの男がモノみたいな言いようだな。まぁ、それでも本人が戻りたいというのなら別だが…」 ランは口許に笑みを刻む。壁からは鎖が垂れ下がり、その鎖は……何処にも繋がっていない。 「セナ…?」 「遅すぎたんだよ。もうこの男はこちら側の人間だ」 「何?」 「これでも最初のうちは抵抗していたんだがな。本当に必要なら怪我をしていようが、何を置いても助けに来るべきだったな。あと二日早ければ、この男もお前達の元に戻ってきただろうに」 ランの言葉に、ぐっと拳を握り締める。 「お前達は賭けに負けたんだ」 「賭け?」 「そう、賭けだ。此処には見張りも何も居なかっただろう?この男がこちらに落ちる前に此処に来ていれば、簡単に連れて行くことが出来た。だが、お前達はそうすることが出来なかった。そして、この男は此方側に落ちたのさ。助けが来る事も、何かを期待する事も、信じる事も、全て捨てて、な」 ランの言葉は翔達に反論を許さなかった。それは翔達自信も感じている事だった。もっと早く、どうして助けに来られなかったのか。セナ一人を苦しませて、どうして助けに来る事が出来なかったのか。怪我なんて、そんなもの、セナ一人で何かに耐えている事を思えば、大した事はない筈なのに。 「でも…それでも俺たちにはセナが必要なんだ!!」 翔はそう叫び、セナとランに一歩近づく。ふと、セナがこちらに視線を向けた。 「セナ…?」 しかし、その瞬間、地面から氷の刃が突き出した。 「セナ!?」 「魔法…?」 「セナの、魔法……本当に、もう、だめなのか?もう戻ってこないのか!?」 近づこうとすればセナの魔法がそれ以上の侵入を拒む。 「セナ!!」 冷たい、冷たい氷。 それが、翔たちの前に壁を作る。これ以上、踏み入る事の出来ない壁を作る。 「セナッ!!」 「遅い、と言っただろう」 ランの言葉が冷酷に響く。 「……セナ?」 「もう、十分だろう」 その、ランの言葉と共に、ランの背後にあった壁が崩れ、其処から二人は飛び去っていった。 追いかける事も出来ず、翔たちは呆然と其処に立ちすくんだ。 そうしていたのは、何も自分たちをセナが拒絶したからだけではない。それもあるが、それだけではなかった。 「セナ……泣いてた?」 「ああ…僕にも、そう見えた」 翔の呟きに、櫂が答える。 翔達を拒絶して、攻撃してきたにも関わらず、それでも、セナは泣いていた。 その涙を見て、自分たちが何も出来なかった事を痛感した。例えセナが悲しみにくれていても、例え絶望の淵に佇んでいたとしても、自分たちは、何もかける言葉が無い。 それを痛いほど理解した。 何も知らないから、何も解からない。何がそんなにセナを苦しめているのか、何がセナに涙を流させたのか。ただ、セナの中にある悲しみが痛いほど伝わってきた。 何も出来ない。 翔たちは、それを痛いほど実感させられた。 Fin |