手負い



 ガタンッ、と玄関の方で大きな音がしてはっとする。
 この部屋の主が帰ってきたのだろうと思い、玄関に向かう。
 其処に居たのは、間違いなくこの部屋の主であり、瀬那の主でもある相馬だった。しかし、その姿を見てはっと息を呑んだ。
「相馬さん…っ」
 右手を壁について、左手で腹の辺りを庇っている。
 元々ワインレッドのワイシャツの所為か目立ち難いが、相馬の手に伝っているのは赤い鮮血に間違いはなかった。その証拠に噎せ返るような血の匂いが充満している。
「相馬さん、怪我を…っ」
「来るな」
 思わず駆け寄ろうとして、しかしそれは相馬の一言で遮られた。
 こちらを睨みつけるように見る相馬は、宛ら手負いの獣のようだった。否、手負いの獣そのものだった。
 壁に手をつきながらリビングへ歩く相馬を見ながらどうしたらいいかと戸惑う。
「病院へは…」
「行く訳ねぇだろ。必要ない」
「でも、手当てをしないと…」
「大した傷じゃねえ、それより近づくなって言ってんだろうがっ」
「でも…っ」
 どう見ても大したことがないとは思えなかった。それを無視することなど出来る筈がない。
 しかし、睨みつけてくる相馬の瞳は強く、それ以上近づくことは出来ない。相馬がリビングのソファに億劫そうに腰掛けるのを見ながらどうすればいいのかと迷う。
「相馬さん…」
「来るなよ。今は気が立ってんだ。犯されたくなきゃ近づくんじゃねぇ」
 相馬の、瀬那を突き放す言葉に、けれどそのおかげで決心が固まった。
 一歩相馬に近づくと、更に強い眼差しで睨みつけられる。
「襲われたくなきゃ近づくなって言ってんだろうが。今は手加減だって出来ねぇぞ」
「構いません」
「何?」
「そうしたいのならしてくれても構いません。でもその前に、傷の手当てをさせてください」
 眉を顰めて瀬那を見つめる相馬を真っ直ぐ見返す。
 瀬那の真意を探るような視線が暫く無遠慮に投げかけられていたが、そのうちふっと視線を逸らして相馬が呟いた。
「勝手にしろ」
 その言葉にほっとして、救急箱を急いで取りに行った。

 上に纏っているものを全て脱いだ相馬の身体についた血をふき取る。相馬の言ったとおり、刺し傷ではなく切り傷だったため、広範囲に傷自体は広がっているもののさして深いものではなかった。それに僅かながらほっとする。傷口を消毒して、ガーゼを当てて包帯を巻く。
 本当なら、ちゃんと病院に行った方がいいのだが、相馬に何を言っても無駄だろう。
「上手いもんだな」
 包帯を巻く瀬那を見ながら呟く相馬に顔を上げる。先ほどまで気が立っていたのも随分落ち着いてきたようだ。恐らくは命のやり取りをして、怪我をし、血の匂いを嗅いだ所為で気が高ぶってしまっていたのだろう。
「一応、習ったことがありますから」
「銃を覚えたのと同じところか」
「……はい」
「ふぅん、軍の養成学校みたいなところか」
 尋ねるでもなく呟いた、という雰囲気にほっとする。詳しく問い質すつもりはないようだった。
 普通、瀬那のような子供が銃を扱えるというのは不信に思って当然だ。相馬もそう思わないではないだろうが、それに関して尋ねてきたことはなかった。
「似たような、ものです」
「まさか、そっから逃げてきたんじゃねえよな?…って、此処よりはそっちの方がマシか」
 くすっと笑いを漏らす相馬に、どう反応を返したらいいものか解からなかった。特に聞きたいと思っている訳でもなさそうだ。ただ、瀬那が話す気になればいつでも聞いても構わないと思っているようだった。
 似たようなところ、と言ったのは間違いではない。士官学校は近衛兵を育てるための場所であり、近衛兵も軍人だ。
 士官学校に居た頃の事を思い出し、懐かしく、寂しく、恋しい。あの頃はまだ無邪気に夢みていられた。同年代の者たちと共に学び、競い合うあの場所が好きだった。ただ、人より早くあそこを出てしまったけれど。
「まぁ、何でもいい」
 そう言って相馬は立ち上がり、服を着る。
「相馬さん?」
「出かけてくる」
「でも、その怪我で…」
「大したことはねぇよ。それに、落とし前はつけとかねーとな」
 傷が痛まない筈はないが、それを感じさせないような笑みを浮かべながら言う相馬の言葉は、瀬那にしてみれば無茶以外の何ものでもなかった。
 怪我を負わせた人間に報復すると言っているのだ。
「そんなこと、怪我が治ってからでいいでしょう?今の状態で行くのは危険です」
「今でねぇと駄目なんだよ」
 思わぬ低い、真面目な声でそう言う相馬にはっとする。
 その声を聞けば、最早止めても無駄だと解かる。
「だったら、私も連れて行ってください」
「お前は来るな。俺の問題だ」
 にべもなく瀬那の言葉を退ける相馬に、それでも此処で退く訳にはいかなかった。
「私は貴方のボディガードです。貴方を守るのが役目でしょう」
「……ったく、どうしようもねぇな、お前は」
「そうかも知れません」
「ま、そういう頑固なのも嫌いじゃねぇ」
 ふっと笑みを漏らし、相馬は玄関に向かう。瀬那も先程の言葉を了承と受け取り、相馬の後をついていった。


 相馬が乗り込んだ車に瀬那も続いて乗り込む。
 ゆっくりと車が動き出し、夜の街を走っていく。スピードは随分出ているが、それを感じさせないぐらいに安定したハンドルさばきで、不安は感じない。
 ただ、スピードを出していると感じるのは、車の表示と、流れていく夜景の速さだけの問題で、それ以外は普通に走っているのと何も変わらないようにすら思える。
 車は街から逸れ、人気のない暗い道を走っていく。どうやら工場が密集している土地らしく、夜も更けたこの時間ならば人気もなくて当然だった。
 そんな工場の密集地で、相馬は車を止めた。
「お前は離れて着いて来い」
 そう言って相馬は車から出る。相馬が夜目でもぎりぎり見えるか見えないか、という距離になってから、瀬那も車から出た。
 コンテナが並んだ一角で、身を隠す場所には困らないだろう。何処に誰が潜んでいるかも解からない。
 離れすぎないよう、近づきすぎないよう気をつけながら、相馬の後をついていく。
 車からいくらか離れたところで相馬が立ち止まった。それを見て瀬那も立ち止まり、物陰に身を隠した。
「まだ居るんだろ。出て来いよ」
 大胆不敵に、相手を挑発するような調子で相馬が言う。
 その声に反応して一人の男が相馬の前に出てきた。その手にはナイフを持っている。恐らくはそれで相馬を傷つけたのだろう。
 しかし、その男の様子はどちらかと言えば相馬のようなやくざ者ではなく、チンピラという雰囲気で、出てきて刃を向けては居るものの、及び腰だった。
「銃も持たせてもらえねぇような雑魚が俺を殺そうなんざ十年早い。さっきは油断してたが、今度はそうはいかねぇぜ」
 にやりと笑って相馬は男を見据えた。
「かかって来いよ。特別に素手で相手してやる」
 その言葉に触発されたように、男が雄叫びを上げながら相馬に向かって突っ込んでいく。それを相馬はあっさりと交わし、男のナイフを持った腕を掴んで引き寄せ、鳩尾に膝を減り込ませた。
「ぐっ…」
 一瞬男の息が止まる。その隙にナイフを取り上げ、更に男を蹴り付けた。男は鳩尾の辺りを押さえて、へたり込む。
 急き込みながら、ナイフを取り上げられた男は相馬を見て怯える。それを、相馬はいかにも詰まらなそうに見下ろした。
 どうやら本当に大したことのない雑魚らしい。それこそ、相馬が自ら出て行って相手をする程の人間でもないだろうが、それでも、傷をつけられた借りはしっかり返すところが相馬らしい。
 そうして安心しかけた時、冷やりとするような殺気を感じた。自分に向けられたものではなく、遠くに居る、相馬たちに向けられたもの。それが瀬那の所にまで感じるほど強く漏れている。相馬もそれを感じたのだろう、慌ててへたり込む男の腕を掴んで、今度は乱暴にその場から移動させた。そして一瞬もしないうちに男の座っていた場所に銃弾が減り込んだ。
「ひぃっ」
 男はそれを見て怯えた声を上げる。それを忌々しげに見ながら相馬は口早に言った。
「さっさと物陰に隠れろ」
 相馬に促され男は慌ててコンテナの後ろに隠れた。
 しかし、相馬は微動だにせずに、銃を撃った人間が居るだろうと思われるところを見た。まるで当ててみろとでも言うような態度に、瀬那は呆れつつも、その場を移動する。
 銃が撃たれた方向をある程度予測し、狙撃した人間が居るだろう場所に向かう。相馬が撃たれる前にその人間を何とかしなければならない。向こうは瀬那の存在には気づいていない筈だ。
 上方から狙撃したのは間違いないからコンテナの上。予想した場所にあるコンテナに、気配を殺して登っていく。相手に気づかれないように慎重にコンテナの上につくと、一人の男が相馬の居る方角に銃口を向けているのが見えた。ゆっくりと場所を移動させ、気づかれないようにリボルバーを回す。
 銃を持つ男の腕を狙って照準を合わせる。

 パンッ

 銃声が聞こえる。
 瀬那が撃ったのでも、その男が撃ったのでもない。そして、その銃を持った男が前のめりに倒れ、コンテナから落ちていった。
 慌てて背後を振り返り、体勢を立て直した。
(もう一人居たなんて…)
 迂闊だった。
 恐らくは、さっき撃った男と同じ組に属する者だろうに、何の躊躇もなく味方である方を射殺したのだ。気づいて居ない瀬那を殺す方が楽である筈なのに。
 コンテナの一番端まで下がり、男に銃口を向ける。
 この男は、殺すことを楽しんでいる。わざわざ自分に存在を知らせて、その実力がどれ程のものか試そうとしている。暗くて男の表情はよく見えないが、その目だけは嬉しそうに輝いていた。
 殺らなければ殺られる。
 直感的にそう思う。
 先程相馬たちに向けて銃を撃った男は瀬那までもが感じ取れるあからさまな殺気を向けてきていたが、この男は違う。気づかない、一瞬の殺気で人を殺す。どちらの腕が上かなど考えるまでも無い。
 相手に気づかれない方が避けられる確率も少ない。
 男は楽しげに瀬那に銃口を向けながら低く笑った。
「まさか、相馬がこんな子犬を飼っているとは思わなかったな」
「……」
 隙はない。
 確実に仕留めなければ、こちらの命がない。
 それでも、人の命を奪うことに躊躇してしまう。その一瞬だった。

 パンッ

 また銃声が聞こえた。
 そしてそれは、矢張り瀬那のものでも、その男のものでもなかった。
「…相馬さん」
 その姿を確認して、瀬那は思わず座り込む。
 コンテナの上に上りきって男を見下ろし、相馬は溜息を吐いた。
 いつの間にか此処まで移動して来ていたのだ。
「全く呆れるな。獲物を前にすると周りが見えなくなるなんて、致命的だぜ」
 既に絶命している男にそう呟く。
 後ろから近づいているのに気づかなかった。それだけ瀬那の方に集中していたということか。
 それから、その呆れたような視線を瀬那にも向けた。
「お前もだ。ヤバイと思ったら迷わず撃て。迷ってる間に死ぬぞ」
「…すみません」
 事実、相馬が居なければ死んで居ただろうだけに、反論は出来ない。
「結局、何の役にも立たなくて…」
 無理を言って着いて来たのに、ボディガードと言うには余りにもお粗末だ。逆に助けられていたのでは立場が無い。
 瀬那が落ち込んでいると、相馬がつかつかと歩み寄ってくる。
「馬鹿が。何落ち込んでんだ」
「でも…返って足手まといになったんじゃ…」
「いい囮役になったじゃねーか」
「…」
 相馬の言葉に、思わずまじまじと見上げてしまう。その視線を鬱陶しそうに受けながら、相馬は更に言った。
「流石に三対一じゃ俺も厳しいからな」
「相馬さん…」
「いつまで座り込んでる気だ?まさか腰が抜けたとか言わねぇよな」
「い、いえ」
 相馬の言葉に一瞬感動しかけるもその後の言葉でそんなこともすっかり忘れ立ち上がろうとすると、その前に腕を掴まれ、無理矢理引き寄せられ、あっさり相馬の腕の中に納まってしまう。
 その腕の中に居れば、血の匂いを相馬から感じて、怪我をしていたのだと今更ながらに思い出した。そんなことなど感じさせない動きだったから、つい忘れそうになる。
「おい、まだ其処に隠れてんだろっ」
「は、はいぃっ!」
 相馬が隠れるように促した男が慌てて出てくる。
「選択権をやる。このまま逃げて、こいつらの仲間に追い掛け回されるか、うちに来て一生お茶汲みでもやるか…どっちがいい」
 にやりと笑って相馬が言う。向こうから相馬の顔は見えていないだろうが、選択権など無いに等しい。どう考えても小者のこの男が、先程の男が所属するような組の連中に追い掛け回されて生きていられるとは思えない。それならばどうせ片足を突っ込んでしまったのだから、相馬の言うようにお茶汲みでも何でもしていた方がマシだろう。
 男は返事に躊躇しているらしい。そんな男を相馬は急かす。
「早く答えろ」
「は、はいっ、お茶汲みでも床磨きでもなんでもしますっ!!」
「よし、じゃあ俺と一緒に来い。来る以上抜け出すなんて許さねぇからな」
「はいっ」
 男は敬礼のような格好をして返事をする。余程緊張しているらしい。相馬はくすりと笑みを漏らしてコンテナの上から飛び降りた。瀬那もそれに続いて飛び降りる。
 下にはもう一人の男の遺体が転がっている。
「放っておいて、いいんですか?」
「どうせ向こうの連中が回収するだろ。ほっとけ」
 そう言って、歩き出す相馬についていく。
「そうだ、まだ名前聞いてなかったな」
 恐る恐る…というのが正しい様子で近づいてくる男に相馬は尋ねる。
「は、八谷と言います」
「八谷、ね」
 それ以上は何も言わず車に向かおうとする相馬に、八谷は慌ててついていく。瀬那は更にその後ろを歩く。
 そうして三人は相馬の車に乗り込んだのだった。



 相馬はまず組長の居る屋敷に向かい、八谷を連れて中に入っていった。瀬那は車で待つように言われて待機している。
 実際瀬那はこの中に入ったことはないし、相馬も連れてこないようにしているらしかった。
 どうやら、瀬那をそこまで深く組に関わらせることは好まないらしい。車の中で待ちながら屋敷の明かりを見つめる。
 暫くそうしていると、相馬が車に戻ってきた。
 八谷という男はどうやら中に残してきたようだ。
 運転席に座り、相馬は重く溜息を吐いた。
「…大丈夫ですか?」
「何が」
「怪我です。やっぱりちゃんと治療した方が・・・」
「心配ない」
「でも…」
 食い下がる瀬那に、相馬はまた溜息を吐いて、上着を脱ぎYシャツのボタンを外して見せた。
 包帯の巻き方が、瀬那が巻いた時とは違う。
 恐らくは、誰かがきちんと手当てをしたのだ。
「包帯も取って見せてやろうか」
「いえ、いいです」
「うちの組はヤツらのとことは違っていろいろ五月蝿いからな。怪我したのが見つかりゃ、ジジイの主治医に強制的に治療させられんだよ」
「…いい人なんですね」
 思わずそう呟くと、じろっと睨まれた。
 でもあまり怖いとは思わなかった。何となくだが、相馬は拗ねているように見えたから。それを言ったら絶対怒るだろうが。
「でも…あの時今じゃなきゃ駄目なんだと言ったのは、あの時行かなければあの八谷さんが彼らに殺されてたからですよね?それを助けるために…」
「馬鹿言うな。死んだら落とし前つけられなくなるだろ。だからその前に行っただけだ」
「そうですか?」
「そうだよ」
「でも、殺さなかったじゃないですか」
 瀬那がそう言うと、相馬はハンドルに凭れかかった。
「言っただろ、うちの組はいろいろうるせぇんだよ。クスリや堅気の人間には手を出すな、無闇に人を殺すなってな。そうも言ってられない連中は例外だがな」
「そう、なんですか」
「ああ」
 でも、そういう場所に居ることを望む相馬は、そしてその場所に立って慕われている相馬は、その組の規律に合った人間だということだろう。
 いい人だとは言えないけれど、決して悪い人でもないのだ。
 相馬の居る組に比べれば、八谷という男が片足を突っ込んだ組は逆にとんでもなく残酷なところなのだろう。仲間であろうと容赦なく撃ち殺すのだから。
 そういうところにも色々あるのだと思うと、複雑な気分だった。
 でも…だからこそ思う。
 みどりの恋人が相馬で良かった。もっと悪い連中だったなら、みどりも瀬那もどうなっていたのか解からない。相馬だからこそ、何であれみどりを自由に出来たし、瀬那も何だかんだと傍に居ることが苦痛ではない。
「何笑ってんだよ、お前」
 相馬がエンジンをかけ、ハンドルを握りなおしながら、横目で瀬那を見て言う。
「いえ、何でもありません」
「変なヤツ」
 そう呟いて、アクセルを踏み込む。
 夜の街を走り出した車の窓から外を眺めて、このままで居るのも悪くないのかも知れない、そう思ったのだった。



Fin





小説 B-side   Angel's Feather TOP