紫苑が自室に持ち帰った仕事をしていると、コトっと静かにカップが置かれた。そのカップを置いた人物の顔を見て、思わず笑みが零れる。 「少し休憩なさったらどうですか?」 「そうだな…」 確かに、少々疲れてきた。 別に急ぎの書類ではないのだが、元々紫苑は書類の整理よりも身体を動かすことを得意としていて、こういうデスクワークはあまり好きではない。だから暇とやる気のあるうちにやって置こうと思うのだが。 「私としては、自宅にまで仕事を持ち込むのはどうかと思いますけど。急ぎの仕事ではないんでしょう?こんなことばかり続けていると、体調を崩してしまいますよ」 「大丈夫だ。その辺はちゃんと心得ている」 「そうでなくても最近ワーカホリックじゃないかと疑いたくなりますけどね」 「別に仕事が好きな訳じゃないぞ?」 確かに、最近自宅でも執務室でも書類にばかり向かっている気はするが。 「仕事をしていないと落ち着かなくなったり」 「いや、そんなことは…」 「休みの日でも仕事の状態がどうなっているか気になったり…」 「う…っ」 「何だかんだで最近寛いでいるお姿を見ていない気がしますが?」 「仕方ないだろう、どうもクリストファー様とレイヤードの二人だけに任せるのは不安なんだ」 別にこの二人に能がないという訳ではない。優秀と言えば優秀すぎるぐらいだが、それとは別にお遊びも大好きなのである。紫苑が見ていない隙に一体何をしでかすかと思ったら不安でたまらない。 「だから、シオン中将がお休みの日は変わりに私が様子を見ているでしょう?」 「ああ、それはすまないと思っている。お前にも別に仕事があるのにな…」 「別にそれはいいんです」 紫苑が申し訳なさそうに言うと、瀬那がぴしゃりと跳ね返す。 実際、今までの会話で瀬那が不機嫌なのは嫌というほど伝わってきている。その原因の一つが仕事をしすぎな紫苑に対する心配なのは間違いない。けれど、それだけではないと暗に匂わせているから、そちらの所為で仕事が疎かになっているからかと思えばそうではないらしい。 「私だとてその辺の要領は心得ていますし、仕事もこなした上で様子を見に行くのは全然構わないんです。ただ…」 「ただ?」 「あの二人を監視…もとい、注視…いえ…どんな言葉でも大して代わりませんね。兎に角、常に私たちどちからが見張っていなければならない、という状況のせいで、解かってますか?…最近、あなたと全然休みが重ならないんです」 「……なるほど」 瀬那の言葉に得心がいって頷く。確かによくよく考えてみれば此処最近、二人で揃って休みになったのは何ヶ月前だろうか…考えていても詮無いが、溜息が出てしまうぐらいに遠い過去に変わりはない。それでも何だかんだで二人の時間は持てているものの、そんな時間でさえ紫苑は仕事を持ち帰ってしている訳だ。 不機嫌にもなるか。 そもそもその原因は、あの国王ともう一人の補佐官にあるのだが。 「しかし、俺とセナが一緒に休みをとるというのは難しいな…。なにしろ前に俺たちが二人で休みをとった翌日は……執務室及びその周囲が半壊していたからな」 「確か、クリストファー様とレイヤードが口論の末、戦闘にまで陥ったんでしたっけ?」 「レイヤードも意外と気が短いからな。それからその前は、勝手にとんでもない企画を通そうとしていたんだったか。その休み明けにすぐに気づいたから良かったが」 「その内容が何だったか、思い出したくもないですね」 「ああ。何より、俺や瀬那以外にあの二人を止められる者が居ないというのが一番の問題だな」 紫苑がそう言うと、二人揃って溜息を吐いた。 二人が居なくなるとそれこそ抑えるものがなくなって何を仕出かすか解からない。 「まぁ、話していても仕方ない。今のところあの二人に意見出来るようになりそうなのはレオンぐらいだが…」 「まだまだ新人の近衛兵ですよ…レオンにあの二人のお守をさせるのは気が引けます」 「まぁな。後は…千倉あたりでも呼ぶか」 「向こうの休日に合わせれば確かに無茶ではないでしょうが、一緒に翔や櫂がついてくると、更に酷くなる可能性があります」 「どちらにしろ、俺たちのどちらかが見張るしかないんだろう」 「……」 紫苑の言葉に、瀬那は黙り込む。不機嫌なのは相変わらずのようだ。無理もないのだが。 苦笑いを浮かべ、カップに入ったハーブティを飲むとふぅっと溜息を吐く。随分長話をしてしまったようだ。 「さて、そろそろ再開するか」 「無理はなさらないでくださいね?」 「ああ。遅くなるだろうから、お前は先に寝ていてくれ」 「しかし…」 「いいから。言うことを聞け。確か昨夜も俺に付き合って遅くまで起きていただろう。俺と違って早出だというのに」 「それは、そうですが」 「ほら、さっさといけ。お前が俺を待って起きていると思うと、仕事が手につかなくなるだろう?」 「…解かりました」 多少不満そうではあるが、瀬那は頷き、寝室に入っていった。それを見送って紫苑は苦笑いを浮かべる。そうして心配されて、何より長く一緒に居たいと思っていてくれることは、紫苑も嬉しい。だからと言って瀬那に無理もして欲しくはないのだが。 それから気を取り直して、仕事を再開した。 一区切りついたところで伸びをする。 随分と夜も更けた。今日はこのぐらいにしておいた方がいいだろう。 書類を纏めて立ち上がると、不意に寝室の方から人の気配がする。今までは書類に集中していたから気づかなかったが、どうやらまだ起きているらしい。 仕方ない、と紫苑は溜息を吐いた。 「寝ていろと言っただろう?」 ドアを開けてそう言うと、ベッドの上で本を読んでいたらしい瀬那が顔を上げる。 「全く、無理して起きていることはないと言っているだろう?」 「別に無理なんてしていませんよ」 ちょっとむっとした顔をして、瀬那が言う。 「セナ…」 溜息を吐いて、瀬那が居るベッドに腰掛ける。すると、瀬那が腕を伸ばして紫苑に抱きついてくる。 「貴方が家に居るのに、寝てしまうなんて勿体無いこと、出来ません」 珍しい甘えるような仕草に、そしてその言葉に、完全にやられている自分を自覚する。 全く、これは完全に解かっていて煽っているとしか思えない。 「セナ、明日の予定は?」 そう聞くと、瀬那はぱっと顔を輝かせた。ああ、もうこれで後戻りは出来ないな、と自覚する。こんな嬉しそうな顔を見てしまえば、抑えられる筈もない。 「遅出です。ですから…」 「朝までぐらいは、平気かな」 「はい」 笑って頷く瀬那にキスをすると、素直に応えて来る。 「んっ…」 甘い吐息を聞いて、今日は長い夜になるな、と紫苑は思う。 けれど、こんな生活が、堪らなく幸せなのだった。 Fin |